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有能だったのに…悲運の戦国武将・武田勝頼の不遇な人生をたどる

有能だったのに…悲運の戦国武将・武田勝頼の不遇な人生をたどる

偉大な父と諏訪家の間に生まれて…

一般的に、武田勝頼「武田家を滅ぼした武将」として、評価が低いように思われます。実際には、彼の戦国武将としての才覚はどれほどだったのでしょうか。

彼は、言わずと知れた武田信玄の四男として1546年に生まれました。勝頼の母は信玄の側室で、信濃国の領主・諏訪頼重とその側室の間に生まれた諏訪御料人です。

ちなみに「御料人」は身分の高い女性を指す言葉で、本名は不明です。『甲陽軍鑑』には「かくれなきびじん」と記されており、これが本当ならとても美しい女性だったことが伺えます。

信玄には息子が7人いましたが、勝頼だけは名前に「信」の字を継いでいません。これは、母方の諏訪氏との関係に不満をもつ一部の家臣に配慮したためとみられています。

勝頼は元服後、信濃国の高遠城の城主になりました。

一方、同じ頃、勝頼の兄である武田義信は父・信玄に対する謀反を疑われて幽閉されてしまいます。義信は武田家の家督の相続権を失い、1567年に自害しました。

そこで武田家の家督を誰が継ぐのかという問題になります。次男の信親は盲目のため出家をしていて、三男の信之はすでにこの世を去っていました。そのため、四男の勝頼に白羽の矢が立ちます。

2ページ目 後見人になって、攻められて…

 

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