有能だったのに…悲運の戦国武将・武田勝頼の不遇な人生をたどる:2ページ目
後見人になって、攻められて…
しかし、勝頼は武田家の正式な跡継ぎにはなれませんでした。彼は、織田信長の姪にあたる龍勝院を正室に迎えて男の子をもうけていましたが、信玄はこの男の子、武田信勝を後継ぎにするよう遺言に残したのです。
勝頼は、息子の信勝が元服するまでの間の後見人として、一時的な代理という立場で武田家の当主になったのでした。
武田家の中には、勝頼の母方の血筋である諏訪市の台頭をなんとしても抑えようという動きもあったようです。くすぶり続けたこの武田家と諏訪家の関係は、やがて家臣たちの分断につながる火種となるのでした。
そして1575年に長篠の戦いが起きます。武田家のゴタゴタの最中に織田・徳川連合軍が攻め込んできたのです。
勝頼は明知城や高天神城を攻め落とすなどの武功を上げたものの、長篠城に攻め込まれてからは家臣をまとめられず苦戦を強いられました。
この時、彼は家臣に撤退を進言されたものの聞き入れず、結果として一万人以上の死傷者を出したといわれています。
敵まで増やして…
その後、勝頼は北条氏政の妹を後室に迎えます。北条家の結びつきを強くすることで、越後の上杉氏との関係修復を図ったのです。
関東から織田と徳川に攻められている武田家にとって、北の上杉との関係を保つのは必要なことでした。
しかしこの措置が裏目に出ます。上杉家でも家督争いが起きており、勝頼はそれに巻き込まれました。
この争いで、勝頼は氏政の弟である上杉景虎の側に就いていました。が、対立する上杉景勝から、味方につけば金銭と領地を……と示され、最終的には景勝の味方となります。
これに北条氏は怒り、勝頼は織田、徳川、北条を敵に回してしまいました。
後はご存じの通りです。徳川が、北条氏との関係悪化をチャンスと見て高天神城を奪取し、一気に武田を攻め落としました。
一方、武田家の家臣には織田・徳川に内通する者や離反する者が続出し、追い詰められた勝頼は天目山で自害。400年続いた武田家は滅亡しました。
しかし戦国武将としての勝頼の武功を見ると、美濃攻めの際には織田の城を18も攻め落とすなどの実績を挙げています。織田信長も「戦の手腕は父親の信玄にも引けを取らない」と勝頼のことを評価していました。
こうして武田勝頼という人の人生を見ていくと、諏訪家との関係やそれによる家臣の分裂、さらに折悪しく発生していた上杉家の家督争いなどにずいぶん翻弄されているように見えます。
また彼の場合、武田信玄という父親が偉大すぎたため、結果的に冴えない感じがするのかも知れません。彼にはツキがありませんでした。「運も実力のうち」と言いますが、彼に欠けていたのはそうした意味での「力」だったのでしょう。
参考資料