5歳で犬を斬り、15歳で人を斬る…武士道のバイブル『葉隠』が伝える子育てが過激すぎる:2ページ目
そのうち立て続けに10人も斬り殺せば、次第に肝も据わってコツもつかめてくるもの。昔は上方でさえこのような教育がなされていたと言います。
しかし最近では地方の身分の武士であっても人を斬ることを教えないようで、平和ボケもはなはだしい。
連中はやれ「無駄な殺生はさせたくない」だの「罪人を斬ったところで手柄にならない」だの「罪に問われる」「汚らわしい」だの……まったく言語道断です。
※原文中の「口ふさげ」は口塞げ、「文句を言わせないこと」転じてここでは言語道断の意味と解釈しました。
彼らは武芸を疎んじるあまり、ネイル(爪)のお手入れとかオシャレにしか関心がなくなったからじゃないかと思われるほどの軟弱ぶり。
その内心を推察してみれば、人の血やら臓物が気持ち悪いので(やりたくないと素直には言えぬため)理屈をつけて、何とか斬らずに済むよう言いつくろっているのでしょう。
しかし、無益な殺生だなどととんでもない。せねばならぬ事だからこそ、かつて直茂公は仰せつけられたのです。
以前、私も嘉瀬(現:佐賀県佐賀市)で人を斬ってみたが、実に高揚するものでした。血や内臓を気持ち悪く思うこと自体、臆病の兆しと言わざるを得ません。
終わりに
……と、山本常朝は言っています。
「武士なんだから人を斬り殺すくらい慣れておけ、血や臓物くらいでビクビクすんな」
現代からすればとんでもない価値観ですね。しかし武士はあくまで戦闘者であり、必要とあらばいつでも敵を殺すことこそ本分。
いざ一大事に刀を抜いて大切なもの(主君や御家をはじめ、自分や家族の生命や財産、名誉など)を守れるよう、このように過激な教育を施したのでした。
中には「犬や罪人も同じ命。命を何だと思っているんだ!」そう憤る方もいるかも知れません。しかし大切な命を守るために、そうでない命を躊躇なく奪わねばならぬことは間々あるもの。
その時に備えて訓練しているのです(人を斬る前段階として犬を斬るというのは、流石に犬が可哀想すぎますが……)。
同じ命だからと言っても、テロリストと家族の命だったら、どっちを選ぶかは一目瞭然。そういう厳しさを備えてこそ、武士の奉公は成るというお話しでした。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 中』岩波文庫、2011年6月