譲り合いが過ぎる!兄に皇位を譲るため、自殺してしまった皇族・菟道稚郎子のエピソード
古来、君主の座には徳のある者がつくべきであり、より相応しい者が現れれば、すぐにでも譲るのが美徳とされてきました。
「あなたこそ皇位に相応しい。さぁ、臣下の礼をお受け下され」
しかしそこは有徳者ですから、権力の座に跳びつくような軽挙妄動には及ばず、慎ましく固辞するのがお約束。
「いえいえ、民のためなら地位を顧みぬほど民思いなあなたこそ、やはり皇位に相応しい……」
通常であれば、しばしそんなやりとりの末に「そこまでおっしゃるなら、僭越ながら……」と皇位を譲る/譲られるまでがテンプレートですが、中には本気の譲り合いが数年にも及んだ事例もあったと言います。
そこで今回は、仁徳天皇(にんとくてんのう。第16代)の異母弟である菟道稚郎子(うじの わきいらつこ)のエピソードを紹介。
タイトル通り、兄に皇位を譲りたいあまり自殺までしてしまったのですが、いったい何があったのでしょうか。
皇位を譲り合うこと3年間……
菟道稚郎子は生年不詳、応神天皇(おうじんてんのう。第15代)と宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の子として生まれました。
菟道とは宇治の古称であり、この一帯に所領を得るなど、何かしらのゆかりがあったものと考えられます。稚は「若(わ)き」ここでは若くして亡くなったことを示しています。
同じ両親から生まれた妹の八田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)は後に仁徳天皇を魅了する美貌であったことから、菟道稚郎子もさぞや美男子だったことでしょう。
幼い頃から利発だった菟道稚郎子は百済より渡来した学者の阿直岐(あちき)や王仁(わに)らにより英才教育を受け、将来を見込まれて応神天皇40年(309年)皇太子に立てられました。
翌年(応神天皇41・309年)に応神天皇が崩御され、菟道稚郎子がそのまま皇位を継承するかと思われましたが、異母兄の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が皇位を奪取しようと兵を挙げます。
このままでは皇太子が危ない……逸早く情報をつかんだ大鷦鷯尊(おおさざきのみこと。後の仁徳天皇)は皇太子にこれを知らせ、大山守皇子を返り討ちにしました。