「征夷大将軍の肩書きなどいらぬ」せっかくのポジションを無下にした源頼朝の真意とは?:2ページ目
鎌倉~室町期の幕府と朝廷の関係
頼朝が急死した後、幕府の将軍職の後を継いだのは息子の頼家でした。それを決めたのは鎌倉幕府であり、朝廷ではありません。
幕府にいた武士たち、次のリーダーとして頼家を選んだからこそ、彼は将軍になれたのです。
これまでの通俗的な理解だと「頼朝は征夷大将軍という軍事のトップに立ったから、その権力を発揮して鎌倉幕府を開いたのだ」とされていましたが、頼家の例を見ると、征夷大将軍というポジションとは関係なく幕府のリーダーになれたことが分かります。
後に、頼家は征夷大将軍になっていますが、それは頼朝が急死してから三年後のことでした。
このように、朝廷が与える肩書にあまり意味がなかったことを示すものとしては、室町幕府の六代将軍・足利義教の例が挙げられます。
義教が「くじ引き」で将軍になったことは有名な話ですが、彼も一応、征夷大将軍になりたい! と朝廷に申し出ています。
ところが朝廷は「髪が伸びていないと元服の儀式ができないから官職には就けないよ」と寝ぼけたことを言います。義教を含め、当時の将軍候補は頭を丸めるのが通例でした。
実際に組織のトップに立って今から政治を行おうとしている者にとっては、そんな儀式などどうでもいい話です。結局、義教は肩書のことはさておいて幕府のトップとしての仕事を始めてしまいます。
この頃になると、朝廷の権威というのは右肩下がりで、武士の権力の方がはるかに強かったという事情もあったと思われます。
当時の、このあたりの体制は想像以上にグダグダだったんだなあ、と感じるのは私だけではないでしょう。
ただ、このように「名実が伴わない」のは日本文化ではよくあることで、反対に肩書や名称が立派だとそれだけで偉く感じられるということもあります。これは、名付けられたものよりも名付けそのものに霊力があると感じる「言霊信仰」ゆえなのかも知れません。
参考資料