和装と和名を貰った幕府の支援者!共に新政府軍と戦った西洋商人・スネル兄弟の軌跡:2ページ目
平松武兵衛として生きた兄と武器商人として生きた弟
慶応3年(1867)の大政奉還後、エドワルドは新しくできた新潟港のオランダ・スイス・デンマーク副領事代行に任命されたため、新潟へ移住。ヘンリーもそれに従いました。
さらに、エドワルドは同地でエドワルド・スネル商会を設立し、長岡藩家老の河井継之助にガトリング砲を2挺とエンフィールド銃、会津藩家老の梶原平馬には継之助仲介のもと、ライフル銃780挺と弾薬を売りました。
一方、ヘンリーは梶原平馬のもとで会津へ行きます。そして、米沢藩家老千坂高雅(ちさか-たかまさ)より軍事顧問になるよう頼まれ、これを承諾。その後、松平容保から平松武兵衛の名と屋敷を貰いました。
ヘンリーは羽織袴に個脇差を差した和装で前線に立ち、新政府軍に大砲を撃つ活躍をみせました。
明治維新後の2人の動向
明治時代になるとヘンリーは日本人妻を含んだ会津藩の住人40人とアメリカカルフォルニア州へ移住。カルフォルニア州のサンフランシスコにあるゴールド・ヒルで「若松コロニー」をつくりました。
しかし、日本の作物が育たなかったため、経営難に陥ります。そこでヘンリーは明治3年(1871)に資金調達のために日本へ向かいますが、二度と戻ってくることはありませんでした。
反対にエドワルドは新潟から東京へ移り住み、その地で商会を開きます。明治15年(1882)まで日本で活動していましたが、それ以後は消息不明となりました。
まとめ
スネル兄弟は日本人に武器を売っていたことから「死の商人」と呼ばれており、西のグラバー・東のスネルとグラバーと肩を並べる存在です。
しかし、グラバーと比べて知名度が低い理由は、史料が少ないことと敗北した幕府側にいたことが要因としてあげられるかと思います。
仮にグラバーとスネル兄弟の立ち位置が反対だったら、歴史の流れが大きく変わっていたかもしれませんね。
参考:高橋義夫『幕末怪商伝』