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伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【4/4】

伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【4/4】

意地でも政宗の世話にはならぬ!阿南姫の晩年

「くっ……殺せ!」

政宗の面前に引き出された阿南姫は、なおも抵抗の意思を示しましたが、もはやその術もなく、実母・久保姫(くぼひめ)の住む杉目城(すぎのめ。現:福島県福島市)に身柄を移され、手厚くもてなされます。

「おぉ、姫や……!」

阿南姫が二階堂盛義に嫁いで以来、数十年ぶりの再会となりましたが、あくまでも伊達家の庇護下に置かれることをよしとせず、甥の岩城常隆を頼って磐前郡(現:福島県いわき市)へ移住。

翌天正十八1590年に常隆が亡くなると、今度は甥の佐竹義宣(さたけ よしのぶ。蘆名義広の兄)を頼って常陸国(現:茨城県)へ移り住み、10年ほどそこで過ごしました。

やがて慶長七1602年、関ヶ原の戦いで石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に与した(と言うより、道義を通して東軍に与しなかった)ことを咎められた義宣が出羽国秋田郡(現:秋田県秋田市)へ転封されると、それに同行します。

秋田への道中、須賀川を通りがかった阿南姫は、郷愁に駆られて暇を乞い、その年の7月14日に62歳で病没しました。

戒名は大乗院殿法岸秀蓮大姉(だいじょういんでんほうがんしゅうれんだいし)、墓は須賀川にある二階堂家の菩提寺・長禄寺(ちょうろくじ)にあり、今も夫や二階堂一族と共に、須賀川の民を見守っています。

【完】

※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年

 

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