貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(完):2ページ目
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その後・遠野にて
さて、遠野に赴任した清心尼たちは、戦乱で荒れ果てていた横田城(よこたじょう。護摩堂山にあったため護摩堂城とも)を鍋倉山に移転、鍋倉城(なべくらじょう)と改称します。
清心尼たちは人民の慰撫と戦災復興に努め、次第に受け入れられていきますが、南部宗家への不満よりも遠野領民に対する愛着がまさったらしく、伊達からの誘いにも乗らず、阿曽沼一族とも和解して、謀叛を起こすことなく遠野の地を治め続けました。
そして正保元1644年6月、鍋倉城で直義夫婦やその子・弥六郎(後の義長)らに看取られながら生涯の幕を閉じました。享年59歳。清心尼の志は直義たちに受け継がれ、末永く領民たちに慕われたということです。
清心尼の墓は鍋倉城より北西、猿ヶ石川のほとりにあって、今も遠野の人々に慕われながら、その暮らしを見守っています。
【完】
参考文献
- 巌手県教育会上閉伊郡部会 編『上閉伊郡志』巌手県教育会上閉伊郡部会、大正二1913年
- 青森県史編纂中世部会『青森県史 資料編 中世1 南部氏関係資料』青森県、平成十六2004年3月31日
- 八戸市史編纂委員会 編『新編八戸市史 通史編2(近世)』八戸市、2013年3月
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