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貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(二)

貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(二):2ページ目

三日三晩の直談判で、直義の家督継承を認めさせる

さて、大阪の陣も終わって豊臣政権は滅亡。徳川方に味方して武功を立て南部宗家も八戸氏も、徳川将軍家の覚えめでたく褒美に与ります。

しかし、八戸氏の跡取り問題は未解決のまま、清心尼は相変わらず所領の経営に奔走する日々を送っていました。

そんな中、清心尼の長女・福(さち)に南部利康(としやす。利直の四男)との縁談が持ちあがります。

たとえ家臣を婿養子に迎えるのは嫌だとしても、主君の子ならば否とは言えまい……そんな利直の目論見が透けて見えるアプローチですが、ここまでされては断ることもできません。

「……されば、利康殿を当家の婿に迎えるのは畏れ多きゆえ、当家より福を嫁がせることと致しましょう」

やむなく清心尼は福を利康の元(南部宗家)へ嫁がせることで、利直が八戸氏へ乗り込んでくる=乗っ取りのリスクをどうにか回避します。

そして元和六1620年、清心尼は又従弟の新田弥六郎直義(にいだ やろくろうただよし)に次女の愛(めご)を娶らせ、八戸氏の婿養子として迎えたのでした。

直義は大坂冬の陣で清心尼の陣代として武勲を立てた忠義の宿老・新田政広の子で、このときちょうど20歳(慶長六1602年12月14日生まれ)。愛の年齢は推定10代半ば、さぞ初々しい若夫婦だったことでしょう。

しかし、南部宗家の利直は、直義による八戸氏の家督継承を快く思いません。

「年若き弥六郎殿では、所領の安定はおぼつかぬ。ここはやはり利康の方が……」

是が非でも八戸氏を掌握したい南部宗家の意向を、清心尼は頑としてはねつけました。

「畏れながら、弥六郎殿は年若くとも才気煥発、至らぬところもございましょうが、父上(政広)殿とわたくしで後見して参ります」

かねて亡父・直政が「もしも世継ぎのない時は、累代の忠臣たる新田家より養子をとるべし」と遺言していたこともあり、三日三晩にわたる直談判の末に直義の家督継承が認められたとの事です。

かくして八戸氏の家督を譲った清心尼ですが、ようやくこれで楽隠居……とは行かず、まだまだ困難が待ち受けるのでした。

【続く】

参考文献

  • 巌手県教育会上閉伊郡部会 編『上閉伊郡志』巌手県教育会上閉伊郡部会、大正二1913年
  • 青森県史編纂中世部会『青森県史 資料編 中世1 南部氏関係資料』青森県、平成十六2004年3月31日
  • 八戸市史編纂委員会 編『新編八戸市史 通史編2(近世)』八戸市、2013年3月
 

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