【豊臣兄弟!】仕組まれた切腹か…佐々成政を破滅に追い込み、刀狩りへ繋がった「太閤検地」の残酷な真相
『豊臣兄弟!』豊臣秀吉(池松壮亮)が進めた「太閤検地」とは?佐々成政(白洲迅)を死に追いやった肥後国人一揆の真相
『豊臣兄弟!』42回「北野大茶湯」では、高山右近(市川知宏)の改易、北野大茶会の開催、そして肥後国人一揆での失策による佐々成政(白洲迅)への処断と、矢継ぎ早に場面が展開しました。
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とくにドラマでは、一揆の原因となった成政の失政を、豊臣秀吉(池松壮亮)の肝いり政策である「検地(太閤検地)」を強行したこととしています。
そして次回43回「殿下の刀狩り」では、肥後国人一揆をきっかけに、全国の百姓から武器を取り上げるという「刀狩り」が描かれるようです。
今回は、前編・後編の2回に分けて、秀吉の二大政策とされる「太閤検地」「刀狩り令」について、史実とドラマの展開を絡めながら紐解いていきます。
前編は「太閤検地」についてお話ししましょう。
秀吉が全国統一のために進めた「太閤検地」
秀吉が行った検地は「太閤検地」と呼ばれます。しかし、秀吉は天下統一を果たす前、本能寺の変・山崎の戦いの直後である1582年(天正10年)から、全国的な検地を本格的に開始しています。
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実は、検地は秀吉のオリジナル政策ではありません。織田信長(小栗旬)をはじめ、多くの戦国大名が、それぞれの領国で実施していました。
ただし、秀吉が進めた検地には、従来の検地とは異なる大きな特徴がありました。
それは、従来の検地では、土地の所有者や村などが耕地面積や収穫高を申告する「指出(さしだし)」をもとに土地を把握する方式が多かったのに対し、秀吉は検地奉行らの役人を現地に派遣し、実際に測量や調査を行うことで、統一された基準によって土地の面積や収穫高を把握しようとしました。
そして、その規模においても秀吉は天下人の威厳をかけ、自身が亡くなる1598年(慶長3年)まで、全国各地で継続して行うという大事業を進めたのです。
秀吉が行った検地により、各地の石高を比較しやすくなり、全国の土地の生産力を把握するための基盤が整えられていきました。それは江戸時代にも引き継がれていったのです。



