【豊臣兄弟!】仕組まれた切腹か…佐々成政を破滅に追い込み、刀狩りへ繋がった「太閤検地」の残酷な真相:3ページ目
太閤検地に抵抗した肥後国人衆と佐々成政
自己申告をもとにした「指出」による検地に慣れていた領主たちのなかには、豊臣政権が進める検地をおいそれとは受け入れられない者も多かったことでしょう。
ですから秀吉は、検地に対する抵抗を厳しく取り締まり、反抗する者たちに対しては「撫で斬り」、つまり皆殺しを命じるほど強硬な姿勢を示したのです。
そして、佐々成政に与えられた領国が肥後でした。
秀長は、北野大茶湯の開催を秀吉に勧める豊臣秀次(山田涼介)に、「九州はまだ定まっていないので時期尚早だ」と言います。なかでも成政が与えられた肥後は、複雑な様相を呈していました。
もともと肥後は、親島津側や親大友側の国人など、独立心の強い国人領主たちが割拠し、激しく争っていました。成政は、そのような国人たちをまとめ上げねばならなかったのです。
新領国を統治するには、まずは土地と所領の実態を把握することが重要です。肥後の支配を急ぐ成政は、当然のことながら検地を実施しようとしました。
しかし、秀吉は成政に肥後を与えた際、国人たちの所領を安堵するとともに、3年間は検地を行わないよう命じていたと、江戸時代の『甫庵太閤記』に書かれています。
この記述が正しいかは確証がありません。だがそれに従えば、成政は秀吉の命令に反して検地を急ぎ、国人たちへの知行配分も秀吉の朱印状どおりには実施しなかったのです。
これに反発した隈部親永・親泰父子らは、検地や成政の領国支配に異を唱えて挙兵しました。つまり、自分たちが代々治めてきた土地に、新しい領主の力が入り込むことを拒んだのです。
この動きに、ほかの国人たちも次々に立ち上がり、一揆は肥後一国に広がっていきます。たちまち成政は窮地に陥り、ついに秀吉に援軍を求める事態となりました。
結局、一揆は援軍として送られた中国・四国・九州の諸大名の力で鎮圧されます。しかし、成政はその責めを負い、秀吉から切腹を命じられたのです。
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ただし、一揆の原因は、国人たちの検地実施への反発だけではありませんでした。九州平定後の秀吉による国分(くにわけ)にも、大きな原因があったのです。
それは、秀吉が早くから豊臣側についた親大友側の国人たちに所領を安堵すると約束しながら、実際にはそれが十分に認められなかったことです。国人たちにとっては、長年にわたって築いてきた領地支配の基盤を脅かされる事態でした。
その不満が豊臣政権、ひいては秀吉への反感に変わり、大規模な一揆となって新領主である成政に向けられたというのが実態でした。
秀吉としては、このような肥後国人衆の動きを見越していたのではないかという説も唱えられています。
だからこそ、難しい肥後を、何度も自分に敵対してきた成政に与えた。豊臣政権に逆らう国人たちと戦わせ、あわよくば成政も国人たちも、ともに抹殺しようと画策したのではないか。そう考えることもできるでしょう。
もちろん、秀吉が最初からそのような意図を持っていたと断定できる史料はありません。しかし、成政にとって肥後の統治がいかに困難なものであったかは、こうした経緯からもうかがえます。
とすると、次回『豊臣兄弟!』「殿下の刀狩り」で描かれる成政の壮絶な最期も頷けるのではないでしょうか。
さて、前編はここまでとします。後編では、秀吉が行ったもう一つの政策、「刀狩り令」についてひも解いていきます。
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