美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【下・帰郷編】:2ページ目
「お互い元より怨みなどなく、それぞれ信じる正義ゆえ、あるいはいっときの都合で敵味方に分かれたまでのこと。まして戦の勝ち負けは時の運、たとい敵であろうと武門たる尊厳を損なわぬように遇せよ」
勝利で驕り高ぶる部下たちを厳しく戒め、どこまでも謙虚な至誠を示した西郷に多くの庄内藩士が感動し、後に西郷を慕ってその教えを学びに行く者が絶えなかったそうです(※西郷の教えは『西郷南洲遺訓』にまとめられ、今日の私たちに薫陶を与えてくれます)。
余談ながら、同じ東北でも会津藩を攻略した薩摩軍は敗者を徹底的に辱め、戦死した会津藩士の亡骸を葬らせず、野犬やカラスの喰い散らかすに任せるなど、冷血非道の処断に及んだため、後に西郷が挙兵した西南戦争では、少なからぬ庄内藩士が西郷軍に与した一方、会津藩士はことごとく薩摩憎しで官軍に加勢したそうです。
ともあれ庄内藩に対する処分は寛大で、一度は改易(かいえき。領地没収)とされたもののやがて復帰し(石高は17万石⇒12万石に減封された)、藩主・酒井忠篤の罪も明治二1869年9月23日に赦されました。
捕虜とされていたであろう琴たちは恐らくそれより早く釈放され、暫く庄内にいましたが、明治七1875年に兄・貞祇と共に暇を乞います。
浪士組に参加した文久三1863年から実に12年ぶりの帰郷(※江戸に居た期間に帰省くらいしたかも知れませんが)、琴は37歳前後になっていました。