【ブラッサム】木村正吾のモデルは誰?札幌で始まる本格創作…平穏の先に待つ“情熱的な恋”:3ページ目
千代が移住した大正9年頃の札幌とは
1920年(大正9年)頃の北海道・札幌は、ドラマで木村正吾が語ったような「開拓が進み希望や夢に満ち溢れたフロンティア」のイメージと重なる部分もありつつ、すでにかなり都市化・近代化が進んだ段階だったそうです。
大正9年の札幌区の有業人口は約37,143人。
そのうち約37%近くが工業、約26%が商業、約13%が公務自由業、約11%が交通業などでした。(「札幌市史デジタルアーカイブ」)
第一次世界大戦(1914-1918)の好況で移民ブームが起き、大正8年に道内への移住者はピークを迎え、行政の中心地として急成長し、郊外への市街地拡大・住宅不足・地価上昇が顕著だったそうです。
また、農業の定着、炭鉱・林業・水産、鉄道網の拡充が続き、札幌は商業・工業が盛んになり銀行や企業も増えていったとか。
大正7年(1918)の『開道五十年記念北海道博覧会』をきっかけに街並みが近代化し、イルミネーションや店頭装飾など都市的な賑わいも見られるようになっていったと伝わります。
北海道へ渡ったことでさらに本格的に創作活動が
札幌での千代は、妻としてかいがいしく家事をこなしたり、女学校で身につけた裁縫の技術を活かして仕立物に精を出していました。(おいでませ山口へ 作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観)
宇野千代は、札幌時代、「仕立て(仕立物)の請負」などの内職や、頼母子講(たのもしこう)※に参加して生活のために貯蓄に励んでいました。
※皆でお金を出し合い、まとまった金額を順番や抽選などで受け取る昔の仕組み
「伯母の足袋」が働くモチベーションになったのでしょうか。
甲斐甲斐しく働いたり家事をしたりする日々で、宇野千代は一見、東京で開きかけた「文学への道」とは縁が切れたような気がしますが、ところがそうではありません。
大正10年(1921)『時事新報』の懸賞小説で『脂粉の顔』が一等入選し賞金を手にして「文章がこんなに金になるのか」と驚き、小説を書くことにのめり込んでいくのでした。
そして、次に書いた『墓を發(あば)く』の原稿を書いたことが、再び東京で会った『中央公論』誌の編集長・瀧田樗陰(※)との縁を結びます。
※「ブラッサム」では『首都公論』編集長・黒崎大三郎(遠藤憲一)となっています。
【ブラッサム】保との別れ、そして再々婚…黒崎(遠藤憲一)モデル、名編集長・滝田樗陰が引き寄せる数奇な運命
最後に
夢と希望を抱いて札幌に行き、親切な伯父・伯母やご近所さんと穏やかで落ち着いた新婚生活を過ごしていたかと思いきや、その生活は約2年ほどで終わります。
そして宇野千代は、再び激しくも情熱的な“文学”と“恋”の渦中に身を投じることになっていくのでした。
宇野千代の生涯に関しては、こちらの記事で詳しく紹介しています。
14歳で初婚、結婚4回…朝ドラ『ブラッサム』石橋静河が演じるヒロインモデル・宇野千代の激動の生涯
果たして、木村珠の札幌での人生は……。
参考:
・『生きていく私』宇野千代(角川文庫)
・札幌市/新札幌市史デジタルアーカイブ・大正期の札幌
・おいでませ山口へ 作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観


