【豊臣兄弟!】絶頂の兄弟を襲った暗雲!秀吉の『北野大茶湯』がたった1日で中止になった本当の理由:2ページ目
「誰でもおいで」けれど「来ないやつは二度とお茶禁止」
『大茶湯之事/太閤記』ほかに記されている「秀吉のおふれ書き」の内容を、簡単に現代語で挙げてみます。
・来たる10月1日より10日間、大規模な茶会を開く
・茶会では秀吉公が、自ら自身の名品を数寄者(芸道に熱心な人物の俗称)に公開
・ドレスコードなどないから気軽に
・「茶の湯」に心がけある者なら、町人でも百姓だも誰でも参加していい
・その代わり釜、釣瓶、呑物を一つを持ってくるか、茶道具がない者は替わりの物でもいいので持参して
・お茶は高いから“麦こがし”(麦を煎ってから挽いた粉)でもいい
・日本人以外の人も参加OK
・遠方から参加する人が大変だから10日間、開催する
そして、「茶の湯の心得」がある者には、秀吉が目の前で茶を立てるという、なんとも面白そうな茶会です。
従来、茶の湯といえば、大名や豪商など限られた人が楽しむものだったの。けれど、秀吉は垣根を取り去り「天下に向けて」開いたのでした。
参加の敷居が低い茶会で多勢の人を集めれば、その参加者たちが他の人に「秀吉の茶会を自慢する」…そんな無料の伝聞による宣伝効果も考えたのかも。
日本中に「秀吉すごい!」が広がることを狙ったとしたら、秀吉はアイデアマンですね。
ただし、気軽に参加できる分「参加しない者は今後茶の湯禁止」という厳しい条件付きでした。
なぜ「北野天満宮」だったのか
菅原道真を御祭神としておまつりする京都の北野天満宮は、天神信仰の発祥の地で、学問や和歌・連歌の神として、身分を問わず広く信仰を集めていました。
室町時代には、将軍の足利義満も北野天満宮を手厚く保護し、大きな催しを開いています。
なぜ秀吉は茶会の場をここにしたのでしょうか?
『北野大茶湯之記』などに伝えられる触書の内容、『兼見卿記』『多聞院日記』などの同時代日記も、開催場所を記録するのみで「なぜか?」の理由には触れていないようです。
のちに推測された理由としては「聚楽第」が近かった(約1kmで徒歩15分程度)ことが挙げられています。
大切な茶道具を運ぶにも近いほうが便利だったこともありそうです。
また、天満宮の周辺は広大な松原で、約1,000前後ともいわれる茶席を並べるには広さ的にぴったりでした。
そして、著名な学問・文化の神として多くの人から信仰を集める場所で茶会を開き、「自分も信仰心があり学問や文化にも通じる人物である」こともアピールしたかったのかもしれません。
(実際、秀吉は古典文学、連歌、連茶の湯、能楽ほか文化的修養を積むよう努力していました。)

