『ブラッサム』ある悲劇から出家、栄光の直木賞を受賞!宇野千代の恋人だった左良太のモデル・今東光の生涯:2ページ目
出家して僧侶となった東光!直木賞受賞ののち、国政へと打って出る!
文学者として生きてきた東光は、やがて新たな道へと踏み出す決意をします。
昭和2(1927)年、親交のあった芥川龍之介が自殺。これを機にして、東光は人生と文学に対する思いが変わっていきます。
昭和5(1930)年、東光は東京・浅草寺の伝法院で得度。春聴(しゅんちょう)という法名を授かりました。
その後、比叡山延暦寺で修行を重ね、昭和9(1934)年には茨城県の安楽寺に入りました。
それまで小説を書いていた東光にとって、僧侶としての活動に生活の中心を移した時代でした。
東光が再び執筆活動を再開するのは、戦後になってからのことです。
昭和21(1946)年、蜂谷きよと結婚。東京調布に暮らし、この時期にも多くの小説を発表しました。
昭和26(1951)年12月、大阪府八尾市中野の「天台院」住職に就任。寺院の宗教活動や運営を担い、戦後の天台院の復興に取り組む活動にも取り組みます。
一方、東光は大阪・河内地方の風土や生活に関心を寄せました。
この土地との出会いが、後年の著作である『闘鶏』『悪名』『河内風土記』などにつながっていったといいます。
昭和31(1956)年、千利休の娘を題材にした歴史小説『お吟さま』を発表。作品は裏千家の機関誌『淡交』に連載され、昭和32(1957)年1月21日、第36回直木賞の受賞作に選ばれました。
長く文壇の中心から離れていた東光にとって、この受賞は大きな転機となります。
同年1月には、宗教専門紙『中外日報』を発行する中外日報社の社長にも就任。文学作品を書くことだけでなく、新聞の発行事業にも関わっています。
昭和33(1958)年4月、『中外日報』で司馬遼太郎(しば・りょうたろう)の小説『梟のいる都城』の連載が始まりました。同作は、のちに『梟の城』と改題され、直木賞を受賞することとなります。
東光が社長を務めた新聞が、後世の人気作家の初期作品を発表する媒体となっていました。