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【ブラッサム】保との別れ、そして再々婚…黒崎(遠藤憲一)モデル、名編集長・滝田樗陰が引き寄せる数奇な運命

【ブラッサム】保との別れ、そして再々婚…黒崎(遠藤憲一)モデル、名編集長・滝田樗陰が引き寄せる数奇な運命:2ページ目

 
2026/10/28

気前のいい滝田のチップは生活を助けてくれた

滝田樗陰は、まだ売り出し中の若手作家だった芥川龍之介・久米正雄・今東光・佐藤春夫・菊池寛などを連れて「燕楽軒」に食事にきていたそうです。

文学少女だった宇野千代にすれば、キラキラする世界に見えたのではないでしょうか。

「燕楽軒」で働いたのはわずか18日間ほど。けれども千夜は「美人」だと評判になり『本郷のクィーン』と呼ばれるようになったとか。

今東光の弟・日出美は、千代を「見詰めずにはいられぬ美人」「本郷の女王(クイン)」であったと回想するなど、千代がいかに魅力的な女性として輝いていたかをうかがい知るエピソードも残されています。(「おいでませ山口へ」作家・宇野千代とは?)

滝田は豪快に食べる気前のいい人だったようで、帰り際には必ずチップを置いてくれたそうです。そのチップが溜まって質草を引きだせる金額にまでなったために、千代は店を辞めたのでした。

滝田との縁が「小説」の道と「次の大恋愛」に導く

東京で保の世話・家事・仕事をしつつ、千代は小説を書き『萬朝報』(よろずちょうほう/日本の日刊紙)の懸賞小説で何度か賞を得ていました。

上京した2年後の大正8年(1919)、千代は忠が帝大卒業をして入籍、翌年、夫は北海道拓殖銀行・札幌支店に就職が決まり札幌に移ります。

そこで、東京で出会った滝田樗陰との縁は切れたのかと思いきや。

大正10年(1921)に、『時事新報』(福沢諭吉が創刊した戦前の五代新聞の1つ)の懸賞短編小説に自身の経験をもとに書いて応募した『脂粉の顔』が一等で当選し、作家デビューしました。賞金は200円を獲得。

文章を書くことがお金になることに驚いた千代は、ついで、『墓を發(あば)く』という原稿を、『燕楽軒』の常連客だった滝田樗陰に送りました。

けれども一向に音沙汰がなかったため、大正11年(1922)4月、千代は滝田に確認するために単身上京しました。

滝田に確認すると、すでに『中央公論』5月号に掲載されていたため、原稿料約366円(およそ現代の170万~200万円とも)を受け取ったそうです。

千代は、その足で岩国の実家に戻り、継母や祖母に原稿料の一部を渡しました。

3ページ目 東京に立ち寄り滝田を訪ね運命が変わる

 

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