『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期:4ページ目
「唯一人間らしい心をもっている」と評された広秀
広秀の死後、彼が丹精を込めて整備した竹田城も廃城となりました。現在残る壮大な石垣の多くは、広秀の時代に整備されたものと考えられています。
最後に、赤松広秀の人となりを伝える逸話を紹介しましょう。
文化人としても知られた広秀は、近世儒学の祖とされる藤原惺窩(ふじわらせいか)と交流し、その活動を援助したと伝えられています。
また、朝鮮出兵の際に、藤堂高虎(佳久創)の軍に捕らえられ、日本に送られた儒者・姜沆(カンハン)とも、惺窩を介して交流しました。
姜沆の記した『看羊録』には広秀について、「日本の将官は、すべて盗賊である。しかし、ただ広秀だけは人間らしい心をもっている」という趣旨の言葉が残されています。
これは、戦国の武将たちを客観的にみていた朝鮮の儒者から、広秀の人柄がどのように映っていたのかを知るうえで、とても参考になります。
儒学を尊び、領民を思いやり、産業や学問を奨励した人物として伝えられている赤松広秀。だからこそ、その死後400年以上が過ぎた現在でも、竹田の地ではその名が語り継がれているのでしょう。
『豊臣兄弟!』では、蜂須賀正勝が龍野城主となったことが、仲間たちから祝福される喜ばしい場面として描かれました。
しかしその陰には、龍野城を追われ、懸命な働きの末に竹田城を築き上げた広秀の存在があったのです。
いま竹田城は「天空の城」と呼ばれ、山頂部の石垣を包み込むような雲海の風景が大変な人気を集めています。
もし竹田城跡を訪ねる機会があれば、ぜひ赤松広秀という武将のことを思い出していただきたい。
そこには、激動の時代を生き、人々の記憶に残る活躍をしたにも関わらず、最後は非業の死を遂げた一人の武将の生き様が、今も静かに残されているのです。
※参考文献
渡邊大門著 『赤松氏五代: 弓矢取って無双の勇士あり』 ミネルヴァ日本評伝選

