『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期:2ページ目
8年後、但馬の要衝・竹田城主に返り咲く
広秀は秀吉を恨むことなく、羽柴軍の一武将として戦功を重ねます。そして1585年(天正13年)、龍野城を失ってから、およそ8年の年月の末、ついに城持ち大名に返り咲きました。
与えられたのは、現在「天空の城」として知られる但馬・竹田城を中心とする2万石余の領地でした。
石高こそ高くはありませんが、竹田城は南但馬を押さえる重要な拠点で、なにより秀吉が経済基盤の一つとした生野銀山へ通じる交通路を押さえるうえでも重要な城でした。
そのような要地である竹田城を広秀が与えられたのは、秀吉の信頼の証であった可能性が高いのです。
そして1587年(天正15年)、広秀は宇喜多秀家の妹を娶り、宇喜多家と縁戚関係を結びます。この婚姻は秀吉の命によるものとも伝えられ、これも豊臣政権のなかで広秀が大きな信頼を得ていたことをうかがわせます。
さらに広秀は秀吉の赤母衣衆にも抜擢され、小田原攻めや朝鮮出兵などにも参加しました。龍野城を失い、一度は領主としての地位を失った男が、豊臣政権を支える大名へと復活したのです。
武功だけではない、領民に慕われた「仁政の主君」
各地の戦いで軍功を挙げ、大名に返り咲いた広秀ですが、彼の優れた点は武功だけではありませんでした。
その最大の美点は、領民のことを考え、領内の産業や農業を振興したことにあります。
竹田城主となった広秀は、城下で養蚕業や漆器産業を奨励しました。また、治水にも力を入れ、領内の農業生産を高めます。
さらに、領民の負担を軽くするため、当時としては画期的な「三公七民」という、年貢を低く抑えた政策を行ったともいわれています。
広秀が竹田領を治めたのは、およそ15年間。これは、決して長い期間ではありません。
それでも広秀は、領民から「仁政の主君」として慕われたと伝えられ、現在も竹田周辺では「赤松さん」と親しみを込めて呼ばれる存在なのです。
3ページ目 関ヶ原で運命が暗転。なぜ広秀は切腹させられたのか

