『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期:3ページ目
関ヶ原で運命が暗転。なぜ広秀は切腹させられたのか
ところが、広秀の運命を大きく変えてしまう出来事が起こります。それが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでした。
豊臣大名であった広秀は西軍に属し、徳川家康(松下洸平)に味方した細川幽斎(亀田佳明)が籠もる丹後田辺城攻めに参加しました。
ところが関ヶ原本戦では、あえなく西軍が敗北。ここで広秀は、旧知であった因幡鹿野城主・亀井茲矩の取り成しを受け、東軍側に転じて鳥取城攻めに参加します。
ところが、この行動が広秀の運命を暗転させました。
鳥取城攻めの際に城下を焼き払ったことが、家康から問題視され、広秀はその責任を問われることになったのです。
この焼き討ちについては、茲矩が命じたものだったという説もあります。つまり、鳥取城攻めを主導した茲矩が城下への放火を行い、家康の責めを逃れるために、責任を広秀に負わせたのではないか、という見方です。
そして1600年(慶長5年)10月、広秀は家康の命によって自害、享年39でした。
敗戦直後に西軍から東軍へ転じたにもかかわらず、なぜ広秀は誅されたのでしょうか。
その背景には、生野銀山をめぐる政治的な事情があったのではないか、という説があります。
関ヶ原ののち、家康は各地の金山・銀山などの鉱山を直轄領とし、生野銀山もその一つでした。
そのため、一説には生野銀山を手に入れたいという家康の思惑を察した茲矩が、広秀を陥れたのではないかともいわれています。

