『豊臣兄弟!』これぞ秀長(仲野太賀)の神対応!毛利輝元(濱正悟)を骨抜きにした超破格のおもてなし戦術:3ページ目
驚愕の接待術
秀長の驚愕の接待術は、ここからここからはじまりました。
なんと輝元一行を、秀長がたった一騎でまだ残暑の残るなかを汗だくになりながら迎えに来たのです。
『輝元公上洛日記』には、秀長が「御迎えとして大納言殿、道五十町ほど御馬をはやめられ御出向きなされそうろう」と記されており、輝元一行を迎えるため、かなりの速さで駆けつけたことが分かります。
そして翌日には、城下の秀長別邸で能の鑑賞を行いますが、最上席は輝元に譲り、秀長はそこより端の席に座しました。
翌日には秀長自らが案内して、興福寺・東大寺大仏・若草山などの奈良観光を行い、興福寺では手配した軽業師に五重塔のてっぺんで扇を広げるという芸まで披露させます。
またその後の猿沢池の畔で催された宴会では、輝元・隆景・広家だけでなく、お供の毛利家家臣全員の膳を並べ、秀長が酒を注いで回ったと伝えられています。
さらにその夜にも、秀長は輝元一行を自らの宿所に招き、「夜物語」を行いました。宴は夜遅くまで続き、翌朝にも食事が用意されたと『輝元公上洛日記』には記されています。
そして、奈良滞在中は毛利家家臣だけではなく、荷物を運ぶ人夫などの小者や馬にまで秀長自ら細かく世話を焼く手はずを整えたと、同史料には書かれているのです。
当時の秀長は、大納言の官位にありました。つまり秀吉に次ぐ豊臣家ナンバー2であり、それは天皇を除けばまさに日本国で2番目の実力者であったのです。
秀長が行った接待術は、従来の武家や公家という概念を越えた、豊臣兄弟だからできることでした。
その懇切を極めた接待は、輝元をはじめ毛利家の人々に、豊臣政権から大切に扱われているという強い印象を与えたことでしょう。
毛利家はその後も豊臣政権の重要な大名として、朝鮮出兵に毛利水軍を率いて参加します。そして関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の総大将に推戴され、徳川家康と対峙することになりました。
豊臣兄弟の「接待戦術」。それは、強大な大名を「戦わずして豊臣政権の側に置く」ための、極めて高度な外交戦術でもあったのです。
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※参考文献
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文集新書


