『豊臣兄弟!』これぞ秀長(仲野太賀)の神対応!毛利輝元(濱正悟)を骨抜きにした超破格のおもてなし戦術:2ページ目
戦うだけではなかった豊臣兄弟の「接待戦術」
天下統一に向けて、豊臣兄弟は戦争によって敵対する勢力を滅ぼしていただけではありません。実は、自分たちの味方に引き入れるための懐柔策も駆使していたのです。
その一つが、秀吉の関白という地位を利用した「官位による大名統制」と、驚くほど友好的な「接待戦術」でした。この二つは、まさに豊臣兄弟の重要な外交手段だったといえるでしょう。
四国平定が終了した1585年(天正13年)12月、秀吉は伊予を与えた小早川隆景と吉川元長の二人を大坂に招きました。
秀吉は二人と対面すると、まず黄金の茶室を見せます。そして連日にわたり秀長主催の茶会、秀吉主催の茶会を続けて行い、能も鑑賞させました。
毛利家を支える重臣とはいえ、隆景と元長は毛利宗家の当主ではありません。
その二人に対して、関白の秀吉と従三位中納言の秀長が家臣任せにせず、直接もてなしたのです。その内容も、当時最高級のもてなしともいえる宴会・茶会・能楽と、まさに盛りだくさんでした。
つまり豊臣兄弟は毛利家に対して、豊臣家から特別に遇されているという実感を与えようとしていたのです。
そして1588年(天正15年)には、毛利家の当主・輝元がついに上洛します。その様子については『輝元公上洛日記』に記されていますが、このときに秀長が行った接待はまさに驚きに値するものでした。
1588年7月、上洛した輝元は聚楽第で秀吉と対面、その翌日には御所に上がり、大臣になれる貴族である精華家に叙せられます。
この後、京都の秀長屋敷に赴くと、織田信雄(山脇辰哉)・徳川家康(松下洸平)・羽柴秀次(山田涼介)・宇喜多秀家・上杉景勝の精華成大名を引き連れた秀吉が現れました。
つまり秀吉は輝元に対し「貴殿も信雄・家康らと同様に、今日からはチーム秀吉の一員だよ」という演出を行ったのです。
そして9月4日には、輝元は同行していた隆景と吉川広家とともに京を離れ、秀長の居城・大和郡山を訪ねます。
