【豊臣兄弟!】殿を死なせない!鬼の元親を降伏に導いた谷忠澄(堀部圭亮)、史実は「切腹覚悟」の進言だった:4ページ目
史実でも「物申す家臣」だった忠澄
史実に伝わる谷忠澄も、圧倒的な勢いの秀長軍に抗戦を続けようとする元親に降伏を進言しました。
元親が激怒することも承知で、なぜ彼は強く講和を説得したそうです。
忠澄は、もとは土佐国の一宮である土佐神社の神主だったものの、元親に見出されて家臣となり外交方面で活躍した人物と伝わります。
天正13年「四国攻め」では、忠澄は江村親俊とともに、戦いの前線・阿波一宮城を守るも落城。
白地城にいた元親のもとへ戻り、羽柴軍と自軍の兵力差・武器の質・兵糧の差を具体的に説明して降伏を勧めたと伝わります。
『南海治乱記』では、秀長軍の優れた兵力や武器の質にも関わらず、自軍の装備は劣ることを挙げ、冷静な判断をしたとか。
『元親記』では降伏を勧める忠澄に、「自分が一度も決戦せずに降伏するの恥辱」と徹底抗戦を主張、忠澄を「臆病者」と罵倒し切腹を申しつけたそうです。
けれども忠澄は屈せず、他の重臣たちを説得し連名で再考を願い、最終的に元親も折れて降伏(土佐一国安堵の条件)に至りました。
これらは後世の軍記物によるものなので、当時の一次史料で元親と忠澄の間のやりとりの詳細は確認できるものではありません。
けれども、忠澄は講和交渉の重要な人物だったことには間違いないでしょう。
秀長が送った覚書
最近、秀長が長宗我部元親・配下に送った和平案を記した覚書が、高知県南国市の県立歴史民俗資料館で展示されたようです。
秀長は和平の条件として「土州一国にて御理之段、随分不可有疎略事、付、内府御同心無之付者非疎略事(土佐一国が与えられるよう努力する)」などと記した。(読売新聞オンライン)
現代語にすると、「土佐一国が与えられるよう努力する。家康の同意がなかったとしても、私は疎かに扱わない」というような意味でしょうか。
秀長は「絶対滅ぼしてやる」ではなく、彼らのためになるよう尽力する気持ちが窺い知れます。
最後に……
「殿!命がけで戦いましょうぞ!わたしも死は恐れない」を忠義とする家臣とは異なり、本来は家臣や領民のことを思う人物であることを思い起こさせ「殿を死なせない」ことを忠義とした谷忠澄。
命を張っても己の間違いを指摘し目を覚まさせる家臣がいる大将のほうが、間違いを指摘してくれない佞臣しか重用しない「裸の大将」より恵まれている……そんな風に思わせられた回でした。
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参考:
長宗我部元親 山本 大
長宗我部元親 土佐の風雲児 四国制覇への道 吉田 龍司
読売新聞オンライン


