『豊臣兄弟!』「織田家になど生まれなければ」信雄の暴言は単なる創作か?壮絶な半生と父への複雑な思い:2ページ目
信雄の人生は決して平坦ではなかった
あまり語られることはありませんが、信長には多くの子どもがいました。伝えられている系譜を合計すると、男子・女子を合わせて20人を超える子どもがいたとされます。
そのなかで歴史の表舞台に登場するのが、嫡男・信忠、次男とされる信雄、三男とされる信孝(結木滉星)、そして秀吉の養子となった秀勝(柊木陽太)らです。
信雄は1558年(永禄元年)生まれ。生母は生駒吉乃(久菴桂昌)とする説が広く知られています。
同じ年に生まれた信孝との出生順には異説があります。これは信孝の母の坂氏が吉乃と比べて身分的に低かったことで、信雄のほうが重要な立場に置かれていたとも考えられるのです。
それはさておき、信雄の少年時代を見ていくと、嫡男の信忠とはかなり異なる人生を歩んでいたことがわかります。
以下、簡単な年表で本能寺の変までの二人の歩みを簡単に追ってみましょう。
●信忠:1557年/尾張国に生まれる。
〇信雄:1558年/尾張国に生まれる。
〇信雄:1569年/北畠具房の養嗣子となり、伊勢へ入る。
●信忠:1572年/元服。
〇信雄:1572年/元服し、北畠具豊を名乗る。
●信忠:1570年代/織田軍の主要な戦いに参加し、織田家後継者としての地位を固めていく。
〇信雄:1574年/長島攻めなどに参加。
●信忠:1575年/織田家の後継者としての地位をさらに確立。
〇信雄:1575年/北畠家の家督を継ぎ、信意と改名。伊勢を中心とする軍事・支配を担う。
●信忠:1577~78年/雑賀攻め、信貴山城の戦い、石山本願寺攻めなどに従軍。
〇信雄:1577~78年/紀州・石山方面などの戦いに参加。
〇信雄:1579年/信長に無断で伊賀へ侵攻し、大敗。
●信忠:1581年/京都御馬揃えに参加。
〇信雄:1581年/京都御馬揃えに参加。同年、信長の命による伊賀攻めで総大将を務める。
●信忠:1582年/甲州征伐で総大将を務め、本能寺の変で死去。
〇信雄:1582年/甲州征伐に従軍。本能寺の変後、信長の遺児らを保護するなどの動きを見せる。
こうして見ると、信雄は信忠の後を追うように、出世し、軍事経験を積んでいったことがわかります。
しかし、二人には大きな違いがありました。
それは、信忠が織田家の後継者として父・信長のもとで育てられたのに対し、信雄は幼くして北畠家の養嗣子となり、伊勢へ送り込まれたことです。
