300人で8500人を返り討ち!『逃げ上手の若君』瘴奸モデル・平野将監の絶望的な籠城戦と悲劇の結末【後編】:2ページ目
鎌倉幕府の大軍勢襲来!上赤坂城での過酷な籠城戦の結末とは…
西国での倒幕軍の快進撃は、鎌倉幕府の支配体制を大きく揺るがします。
鎌倉幕府は大軍を西国に向けて派遣。本格的に倒幕側を討伐するように動いていきます。
将監は楠木正成と共同戦線を展開して幕府軍を迎撃しています。
元弘3年/正慶2(1333)年2月22日、上赤坂城(楠本本城)に主将として入った将監は、楠木正季(正成の弟)を副将として布陣。正成の千早城、護良親王(後醍醐天皇の皇子)の吉野城の3ヶ所で連携を強めての籠城でした。
『太平記』などでは、楠木正成の活躍が多く語られがちです。
しかし幕府軍が実際に主戦場と想定していたのは、将監が立て篭もる上赤坂城でした。
幕府は上赤坂城攻めに大手総大将・阿蘇(北条)治時を派遣。千早城と吉野城攻めには、副将である搦手大将の大仏高直と名越宗教が配置されています。
将監の配下は多くても300人程度。対して上赤坂城を囲む幕府軍は8500人いたとされます。
戦いは熾烈を極めますが、将監たちはよく持ち堪えて抵抗を継続。敵勢のうち1800人程度の死傷者を出すほどの健闘を見せます。
当時の鎌倉武士たちは、騎兵を主力として、長大化した大型の太刀を用いて戦っていました。
当然、雑兵が多い将監たちにとって正面からの戦いは不利です。
この戦力差を覆すために考案されたのが、弓矢と上赤坂城の地形です。
当時の弓矢は射程距離が大幅に向上しており、強度を増した遠方射撃が可能となっていました。
加えて上赤坂城は騎兵が稼働しにくい設計で構築されており、十分に鎌倉武士たちの力を発揮できなようになっていました。
しかし衆寡敵せず、やがて上赤坂城に限界が訪れます。
すでに将監の配下のうち討ち死が70人、手負いは200人を超えていました。残るのは30人程度です。
時期は不明ですが、副将の楠木正季は上赤坂城を脱出して正成の千早城に合流。これは将監が逃したものとも思われます。
『太平記』によると、落城を悟った将監は幕府方と交渉。赤橋右馬頭(阿蘇治時を指すか)から助命と本領安堵の約定を取り付けたとされます。
しかし軍奉行の長崎九郎左衛門(長崎師宗)は約定を反故にして捕縛。降伏した将監ら30人は、六波羅探題に身柄を引き渡され京の六条河原で処刑されたといいます。
しかし史料上は、投降後の消息についてはわかっていません。
『逃げ上手の若君』の瘴奸のように、実際は生き残っていた可能性も排除することはできないでしょう。
確実に言えることは、平野将監という悪党が西国で立ち上がり、幕府軍を苦しめ凧とで、のちの倒幕実現へとつながる道筋ができた、ということです。
【前編】の記事はこちら↓
『逃げ上手の若君』貴族の血を引く反逆者!悪党・瘴奸の実在モデル・平野将監の生涯【前編】
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