「仙境のナイチンゲール」志田周子——雪深い“医者のいない村”を支え続けた女性医師の生涯【前編】:3ページ目
26歳の女性医師が、村で一人
大井沢へ戻った周子は、村で唯一の医師となりました。今のように、体調が悪ければ車で病院へ行ける時代ではありません。患者のところまで医師が出向くこともあります。往診です。
雪の中を歩いたこともあったでしょう。道が悪い日もあったでしょう。それでも、病人は待ってくれません。医師が一人しかいないのですから、周子が診なければならない患者は次々にやってきます。
26歳の女性が、村の医療を背負う。簡単な仕事ではありません。しかも、東京で医学を学んだばかりです。都会で身につけた知識や技術を、今度は雪深い山村で使っていくことになりました。
1938(昭和13)年。父親との約束だった3年が過ぎました。では、周子は東京へ戻ったのか。結論から言うと、戻りませんでした。ここから、志田周子の人生は大きく変わっていきます。「3年間だけ」のはずだった大井沢で、そのまま医師を続けることになったのです。
なぜ残ったのか。残された文献を見ていくと、周子は、村人たちにとって欠かせない存在となっていたことがわかります。ですが、ここで「村人のために人生を捧げた」という言葉だけで片付けてしまうのも、少し違うように思います。
最初は3年のつもりだった。ところが、患者を診る。その患者の家族とも顔を合わせる。村での暮らしにも慣れていく。そうしているうちに、いつしか「3年たったら東京へ戻る」という予定そのものが遠くなっていった。
人生には、そういうことがあります。大きな決断をしたつもりはなくても、目の前のことを一つずつ続けているうちに、気がつけば自分のいる場所が変わっている。周子の場合、それが26年間続いたということです。
次回【後編】に続きます。
トップ画像:NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』より。左側が志田周子。
参考
- 志田周子(しだ ちかこ)僻地医療に生涯を捧げた女医
- 大井沢に輝いた志田周子の生涯
- 志田周子先生歌碑
- 志田周子「無醫村醫の生活記錄」日本女医会雑誌発行所『日本女医会雑誌 (112)』( 1943)
- NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』(1973)
- 山形県生涯学習人材育成機構 編『新アルカディア叢書 第8集 山形の人 1』(1994)