『豊臣兄弟!』茶々=悪女はほぼ創作?秀吉が溺愛、豊臣家滅亡を背負わされた茶々(井上和)の壮絶すぎる生涯:4ページ目
秀吉がなぜ茶々を側室に求めたか?
まだ20歳前後の茶々が、なぜ秀吉の側室になることを承知したのか?という理由については不明です。
秀吉がなぜ茶々を求めたか?という理由については…複数の説があります。
・秀吉が無類の「女好き」だった
秀吉は自他共に認める無類の「女好き」で知られ、一説によると側室の数は20人ほどだったとか。そんな秀吉なので絶世の美女だった茶々に目をつけた
・憧れの「お市」の面影があった
秀吉は昔からお市に惹かれていたので、お市に似ている茶々に惹かれた
「織田信長の血」が欲しかったから
ずっと忠義を尽くし憧れていた「織田信長の血」を残したかった
・正室の寧々との間に子ができなかったから
正室の寧々(北政所)との間に子供ができず、天下人として男児の後継が必要だったので、若い茶々なら「子を成せる」と期待した
・百姓の出と容姿へのコンプレックスがあった
ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉の言葉として
「予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」という記述があるとか。
秀吉は自分の容姿や百姓という出自にコンプレックスを持っていたために、織田信長の血を引く絶世の美女を側室にして、自身のクラス感をあげたかたった
など。全ての要素が含まれていたのかもしれません。
秀吉がなぜ茶々を側室に求めたか?
天正17年(1589)、側室にしてすぐ、茶々は懐妊。大喜びの秀吉は弟・秀長を後見人にして、細川忠興を補佐として、山城の淀城を改築して茶々に与えます。
お産のために城を与えられた側室は茶々だけだったとか。その頃から「淀殿」と呼ばれるようになります。
(「淀君」は江戸以降に使われた通称。悪女のイメージをつけるためにわざと遊女に用いる名前「君」を付けたという説ほか、これに関してはさまざまな説があります)
けれども生まれた鶴松は天正19年(1591)に死亡します。淀殿は再び翌年に懐妊し次男秀頼(幼名は拾丸)を出産しています。
秀吉の正妻も側室たちも誰も妊娠しなかったのに、淀殿は2回も妊娠出産していることから、「秀頼は秀吉の子ではない」説が浮上し、それが悪女伝説に繋がったともいわれています。
ここから、茶々こと淀殿は、さらなる激動の人生と悲劇が待ち構えているのでした。そんな彼女の運命は、また続編にて。
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