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【豊臣兄弟!】最後まで光秀に仕えた斎藤利三の壮絶な最期…晒された遺体を命がけで奪還した親友

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親友、海北友松・東陽坊長盛は利三への仕打ちに激怒

そ秀吉の、非道な光秀と利三の遺体への仕打ちに激怒した人がいました。

絵師で槍の達人でもある海北友松です。

友松は、北近江の戦国大名浅井家の重臣・海北綱親の5男として生まれました。

ところが、2歳の時に綱親が討死したために、京都東福寺で禅僧としての修行に入ったのです。友松は禅僧の修行とともに、弓・太刀・槍などの修行にも励んでいました。

浅井長政の死後、浅井家が断絶に追い込まれたあと、海北友松は茶の湯をきっかけに斎藤利三に出会ったそうです。

利三は、堺の豪商・津田宗及などと茶の湯を嗜むなど、高い教養を兼ね備えていました。さらに、僧侶でありながら千利休に茶湯を学んだ文化人でもある京都真如堂の塔頭・東陽坊の住持・東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)とも出会い交流を持つようになったのです。

斎藤利三・海北友松・東陽坊長の三人は茶湯を通して、親友といってもよいほどの友人関係を育んでいったそうです。

そのせいか、海北友松・東陽坊長は、秀吉が光秀と利三の遺体を残酷な扱いをして晒しものにして、死者を冒涜し辱めるという振る舞いに激怒したのでした。

刑場に忍び込み利三の遺体を奪還し葬った親友

海北友松・東陽坊長の二人は、長槍を持って粟田口の刑場に忍び込んで番兵を追い払い、利三の遺体を奪還しました。そして、真如堂に戻り手厚く葬ったのでした。

秀吉にとっては、明智光秀とともに謀反を起こした大罪人。せっかく市中に晒して辱めて信長の仇を取ってやったといい気分に浸っているところに、その遺体を奪還されたとあってはメンツは大潰れで、どんな刑罰を受けるかわかったものではありません。

けれども、親友の遺体がそんな扱いをされていることに、二人は到底我慢ができなかったそうです。

また、友松はその後も、近江堅田に隠れ住んでいた利三の妻子の面倒を見続けたとも伝わります。(因みに、利三の末娘が後に江戸城大奥で権勢をふるう春日局です)

このエピソードに関しての一次史料はないようです。けれども、京都の真如堂には、実際に斎藤利三・海北友松・東陽坊長の三人の墓が現存し、今も供養に訪れる人は絶えないようです。

春日局が父・斎藤利三を弔うために植えた「たてかわ桜」

また、三人の墓所の近くには、春日局が父・斎藤利三の菩提を弔うために植えた『たてかわ桜』も。

通常は、染井吉野の樹皮が横向けに走るのに対し、この桜は桜の巨樹に多い江戸彼岸系の品種で、松の皮のように縦に樹皮が走ることから、その名が付いきました。

春日局は、当時主流だった山桜や他の品種ではなく、この江戸彼岸系という桜を選んだのはこの種が長寿だったからともいわれています

「上様(明智光秀)の作る世が見てみたかった」斎藤利三。

そんな、忠義者の利三の遺体を「秀吉ごときに辱めを受けてたまるか」と奪還した漢二人、海北友松・東陽坊長。

「山崎の戦い」の影に存在した、忠義と友情に彩られたアナザーストーリーでした。

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参考:墨龍賦 葉室 麟

 

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