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【豊臣兄弟!】最後まで光秀に仕えた斎藤利三の壮絶な最期…晒された遺体を命がけで奪還した親友

【豊臣兄弟!】最後まで光秀に仕えた斎藤利三の壮絶な最期…晒された遺体を命がけで奪還した親友:3ページ目

光秀が信頼を寄せた家臣の息子に裏切られる

前回のドラマでは描かれなかった斎藤利三の最期

『豊鑑』(※1)によると、山崎の戦いで先鋒を務めたものの、形勢不利となったために逃げた利三は、近江志賀郡の堅田(滋賀県大津市)に潜伏しました。

この場所は、光秀の重臣・猪飼昇貞の領地でした。昇貞は本能寺の変では、明智方に加担し戦死したものと推測されています。

けれども、昇貞の子・猪飼秀貞は潜伏中の利三を捕縛したのです。

秀貞も光秀に仕え、明智半左衛門秀貞という名を賜っていました。明智姓を許されるということは、光秀からはそれなりの信頼を寄せられていたのかとは思うのですが。

秀貞は、本能寺の変では光秀の見方にはつきませんでした。なぜか?の理由は不明です。父が光秀側につくのであれば、一族や家来を路頭に迷わせないため、息子の秀貞は光秀側にはつかなかったのでは、とも推測されています。

そんな秀貞は、方法は不明ですが斎藤利三を騙して捕縛、一緒にいた息子と共に秀吉に突き出したのでした。
『兼見卿記』)(※2)

※1 豊鑑:豊臣秀吉の伝記。秀吉の臣で竹中半兵衛の息子・竹中重門が、隠棲のつれづれに童子の尋ねるままに古ごとを語り、それを筆に移したという著述。寛永8年(1631)8月に擱筆。

※2 兼見卿記:明智光秀とかなり親しい仲だった吉田神社の祭祀を担う一族の長・神道家の日記

斬首した首を胴体とつなぎ再度磔にした秀吉

天正10年6月13日「山崎の戦い」の5日後の18日、斎藤利三は京都市中を引き廻しのうえ、六条河原(現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り)で処刑されました。

光秀は、明智軍の敗北を知って落武者の所持品や首級を狙って落武者狩りを行っていた土民らの落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げたと伝わります。

その後、光秀の斬られた首(※)は胴体と接続させて、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)で磔に。斬首された利三も同様の扱いをされて、衆人の面前に晒されるという残虐なはずかしめを受けました。

この処刑には多くの見物人が集まったそうです。光秀と利三のほか討ち取られた首は3000余もあり、それらの首を埋葬した首塚が築かれました。

光秀の首塚は、三条白川、亀岡市郊外の谷性寺、宮津市の盛林寺など、いくつか存在しています。

※光秀の首は落武者狩りをした土民が差し出した、実は光秀の首は見つからず秀吉はほかの者の首を利用したなど、諸説あり

4ページ目 親友、海北友松・東陽坊長盛は利三への仕打ちに激怒

 

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