『豊臣兄弟!』信長の草履がつないだ“兄弟の絆”…第28回「急げ!秀吉」で織田から豊臣へ託されたバトン:3ページ目
「殿さえご無事なら」兄の気持ちを読んだ小一郎
「本能寺の変」のことを、備中・高松城にいる兄・秀吉に伝えるべく文をしたためる小一郎。
「上様をお助けできなかった」という森乱の最期の言葉は、兄に伝えない決心をしました。
第14話『絶対絶命』で、浅井長政(中島歩)の謀反を知った信長が荒れ狂って闇堕ちしそうな時、自らの足を刀で刺したときの秀吉を思い出します。
「傷を負ってしまったから動けない。浅井・浅倉軍は自分が止めるから、殿は帰ってください。」といい、「殿さえご無事なら、我らは何度でも蘇りまする」と笑顔を見せた秀吉に、思わず信長も涙しましたね。
「殿さえご無事なら」。
「殿はまだ無事かも」と希望を残せば、兄はきっと最速で帰って来るはず。兄を熟知している弟ならではの作戦でした。
最初は「わしは信じぬ!」と小一郎の文を破り激怒する秀吉に、文を持って来た前野長康は「真実を知っているので」悲しそうに目を伏せます。
そして、「これが小一郎の字であることは殿もわかっているはずじゃ」と手紙を拾って、再度渡す蜂須賀正勝(高橋努)。諭す言葉に温かみがあり情が伝わります。
これがもし黒田官兵衛(倉悠貴)がいったとしたら「事実のみが冷静に伝わり」秀吉はより激昂したかもしれません。
官兵衛が信長の死を聞いて秀吉に「殿、ご武運が開けましたな」といった、かの有名なセリフは、ここでは採用しなくて正解。
長年の付き合いの正勝が情ある言葉でなだめ、長康の誠実な沈黙(信長の死を隠してはいますが)がしばし考える間を与え、少し気持ちが落ち着いたところで、官兵衛が冷静に次の動きを提案する……
小一郎はそんなふうに先読みしていたのではないでしょうか。
さすが、史実でも人々の「取次」や「調整」の手腕に長けていたという豊臣秀長らしい読みだったのだと思います。
実際、「殿、ご武運が開けましたな」の黒田官兵衛のセリフは、いくつかの文献で見かけられるそう。
「まだ若い黒田官兵衛が言った言葉は、実は秀吉もそう心中で思っていたので驚いた。のちに地震で『秀吉が死んだ』という噂が流れた時、秀吉は官兵衛に『わしが死んだと聞いて嬉しかったろう』と言った」という話もあるそうです。
秀吉のもとに信長の訃報が届いたのは、本能寺の変の翌日3日といわれています。
『武功夜話』には、信長の死を伝え聞いた秀吉は「実をもって悲嘆の至り」と、大変嘆き悲しんだことが記されているそう。
けれども、その一方で「その直後に毛利方とすぐに和睦、すみやかに自軍を撤退させること、殿(しんがり)は弟の小一郎が率いる」ことも記述されているとか。
また「中国大返し」は、逸話としては有名なものの多くの二次史料では日程に食い違いがあるそう。
「秀吉の書状」と伝わる一次資料でも「虚偽」が含まれているので、秀吉自身が「ホラを吹いている」部分があり、実際には「中国大返し」はそれほど画期的なことではなく、十分に実行可能であったという研究もあるようです。
