手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る

『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る:3ページ目

本能寺にはいなかった明智光秀

“そのとき”。

明智光秀(要潤)は6月2日未明、どこにいたのでしょうか。

「豊臣兄弟!」第27回のラストの紀行では、「光秀は実は本能寺にいなかった」とする『乙夜之書物(おとぎのしょもつ)』を取り上げていました。

この書物では、「光秀は本能寺襲撃の際には、京都の南・鳥羽にいた」と記されています。

鳥羽と本能寺は約7kmほど離れています。車だと約30分ほどかかる距離。なぜ、現場にはいなかったのでしょうか。

この史料『乙夜之書物』を記したのは「関屋政春(せきや・まさはる)」(慶長20年(1615年)生まれ)。加賀藩の「前田家」の家臣で、戦術や武士のあり方などを学ぶ兵学者でもあった人物です。

この『乙夜之書物』は、「実際に本能寺で戦った人物の証言」をもとに書かれているそう。

「伝聞」ではあるものの、「町の噂で」とか「知り合いの、知り合いの……そのまた知り合いから何となく聞いた」という話ではありません。

当事者から著者の関屋政春までに間に入った人間が少ないので、「信ぴょう性があるのでは」と評価されているそうです。

光秀は鳥羽にいた

「光秀ハ 鳥羽ニ ヒカエタリ(光秀は鳥羽に控えたり)」

『乙夜之書物』にある記述。つまり光秀は本能寺には行かずに、本能寺から南に7kmちょっと先の「鳥羽」で控えていたということです。

一方、信長がいる本能寺へは、重臣の「明知弥平次」(明智秀満)「斎藤内蔵助」(利三)が「弐千余騎」を率いて攻め寄せたと記しています。

ドラマの中でも、本能寺で「狙うのは信長ただ一人。必ず見つけ出せ!」と指揮を出したのは斎藤利三(内藤剛志)でしたね。

本能寺を約13,000人の明智軍が問い囲んで襲撃したときに、真っ先に突入したのが斎藤利三だったともいわれています。

また、当時の公家の日記には「日向守内斎藤蔵助、今度謀反随一也」という一文が残されているそうです。

この文は、「このたびの謀反の張本人は斎藤利三」という意味と、「このたびの謀反でもっとも手柄をあげたのは斎藤利三」という意味の二通りの解釈があります。

ドラマ内では、炎に包まれた寺の中で「お覚悟を」と信長の目の前に光秀が現れました。信長は、「お前じゃない」と斬り捨てましたが、それは幻影。この「現場にはいなかった説」を採用したからでしょうか。

『乙夜之書物』によると、「光秀は鳥羽にいた」説の証言は斎藤利三の三男・斎藤利宗だそうです。

「本能寺の変」や「山崎の戦い」にも参戦した利宗から「本能寺の変」の「物語」を聞いた甥・井上清左衛門が、それを関屋政春に話した……とのことです。

4ページ目 信長を打ち損じた場合に「退路」を断つため?

 

RELATED 関連する記事