手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る

『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る:2ページ目

見事な戦いぶりを見せた信忠

信忠は、二条新御所ではどのような行動を取ったのでしょうか。

「織田家の当主として最後まで勇敢に戦った」……と記述している過去の史料がいくつかあります。

▪️「世子(信忠)はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多勢の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分のある武士や兵士たちもともに同じ最期を辿った」(ルイス・フロイス『日本史』)

▪️「最期を悟った信忠は、一番に切って出て向かってくる敵兵17、18人を切り伏せた。」(『総見院殿追善記』)

▪️「光秀軍から、屈強の兵数人が名乗って引き返し切って掛かってきた。これを見た信忠は、その真ん中に切って入り、常日頃から稽古していた兵法、古流・当流、秘伝の術、英傑一太刀までも奥儀を尽くして切り廻り、孫十郎を薙ぎ伏せ、清次、三右衛門の首を丁々と打ち落とした。」(『総見院殿追善記』)

しかしながら、「もはこれまで」と悟った信忠は、家臣の鎌田新介に切腹時の介錯を頼み、「切腹後、縁の板を外してその中へ遺骸を隠すよう」に指示して、26歳の最期を迎えました。

江戸時代・公家の文書に記された信忠の最期

近年、本能寺の変ののち、公家が天皇に語った体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する『陽明文庫』(※)で見つかっています。

その史料によると、妙心寺から二条御新造に移動した信忠が籠城するため、雅朝王が誠仁親王らを逃がしたときのこと。

「かゝるふうんにあふはちからなし」
「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ」

信忠は、「このような不運にあったのは力ないことだ」「神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように」と伝えたといいます。

また、親王が御所をでるときは、明智側の兵士たちも皆頭を垂れたことなども記されているそうです。

100年前後たった文書で真偽のほどは不明ですが、江戸時代の公家社会でも本能寺の変は大変注目されていたことがわかります。

※陽明文庫:旧公爵近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、古美術工芸品などを一括して保存管理する歴史資料館。(京都市右京区宇多野上ノ谷町)

3ページ目 本能寺にはいなかった明智光秀

 

RELATED 関連する記事