『豊臣兄弟!』逃げた夫のせいで処刑…荒木村重の妻・だし(山谷花純)、信長の怒りに葬られた悲劇の生涯:3ページ目
夫・荒木村重のせいで悲劇的な最期を迎えるだし
だしは推定21歳位という若さで「京都市中を引き回しのうえ斬首」というあまりにも残酷な運命を迎えます。
それもこれも、全部、夫・荒木村重のせい。
残された記録によると……
天正6年(1578)に勃発した織田家と別所家の間の「三木合戦」。村重は織田・豊臣軍に付きます。けれども、信長に「村重が石山本願寺と内通!」という情報が舞い込みます。石山本願寺は、信長から寺の明け渡しや矢銭(軍用金)を要求され、敵対関係にある間柄。
けれども、信長はその情報に対して「母を人質に出せ。そして安土城まで弁明来い。そうすれば許す」と寛大な条件を提示したのでした。
村重は、安土城に向かうものの、中川清秀と高山右近から「信長は、疑いを持ったらと許許すようなことはしない。毛利と組み籠城したほうがよい」と言われ有岡城に留まり籠城、信長に反旗を翻します。
それでも信長は村重を説得すべく明智光秀や豊臣秀吉など家臣達を派遣。けれども、村重は応じません。
ところが、今度は中川清秀と高山右近が信長に寝返り、天正6年(1578)有岡城は織田軍に包囲されてしまいました。
けれども信長は最大限の譲歩として「尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残る人質の命を助けよう」と条件を出します。それも村重は頑なに拒否。
天正7年(1578)、村重はわずか5〜6人の共を連れ妻子も、重臣も、城兵も、有岡城に残したまま脱出。そのことで残っていた将たちは戦意喪失し有岡城は終焉を迎えたのでした。
「頑なに信長の申し出を断った挙句に自分だけ逃げた大将」にはほんと驚きですが、なぜ村重は謀反を起こした?・なぜ信長の条件を断り続けたのか?など、真実はいまだに解明されていないようです。
いろいろな説がありますが、「謀反を起こした」ことよりも、「愛妻や一族をすべて犠牲にして自分だけ逃げる」ことのほうが最大の謎。「は?なんで?」とこの“髭”の胸ぐら掴んで問い詰めてみたいです。
