【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期:5ページ目
キリスト教と仏教で評価が分かれすぎる信澄
信澄に関しての評価は、再反対に分かれているのも興味深いところです。
宣教師、ルイス・フロイスは「信澄は異常なほど残酷で、皆が彼の死を望んでいた」と書いており、同じく『耶蘇会報』でも「信澄は甚だしく勇敢だが惨酷」と評しています。
一方、信澄を殺した信孝はキリスト教に造詣が深かったために、宣教師に高く評価されました。フロイスは、「三七殿(信孝)は勇気と信用を獲得、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」とも書いているそうです。
ところが、奈良興福寺の多聞院英俊は信澄のことを「一段の逸物」というかなりの高評価をし、その死を惜しんでいます。
これの真逆の評価は、キリスト教の視点からみるとそぐわない行為をしたため評価は厳く、仏教の観点からみると信澄は立派な人物だったので評価が分かれたと推察されているようです。
子孫は幕末まで生きながらえた
信澄の長男・織田昌澄は藤堂高虎の斡旋により、豊臣秀吉、その死後は豊臣秀頼に仕えます。大阪の陣では徳川軍に降伏し自害を図りますが、高虎のとりなしもあって助命されました。
その際、出家するも、徳川秀忠に旗本として召し出され還俗。旗本として2,000石を与えられ、子孫は残し幕末まで続きました。
信澄の弟・織田信糺は元々信長の次男・織田信雄に仕えていたためか、お咎めはなく、後に蜂須賀家に仕え家光の時代まで生きました。
もう一人の弟・織田信兼は織田信孝に仕えており、信孝が豊臣秀吉に攻められて自害するまで仕え続けました。
因縁の、織田信澄(緒形敦)と織田信孝(結木滉星)の関係は、「豊臣兄弟!」ではどのように描かれていくのでしょうか。運命に翻弄された織田の若者たちの行く末を見守りたいと思います。
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参考:信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反 (中公新書)


