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【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期

【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期:4ページ目

本能寺の変で明智側の人間と疑われ

天正10年6月2日、明智光秀が約13,000人もの大軍を率い、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲した『本能寺の変』

なぜこんなことを……には諸説あります。さまざまな事件が積み重なって爆発した怨恨説、主君に変わり天下を取りたかった野望説、苛烈な信長に対する恐怖説、光秀が支えていた足利義昭ほか「黒幕」と組んだ陰謀説など。

いずれにしても光秀が謀叛を起こしたことには変わりありません。そのため、信澄は光秀の娘婿だったたけに「この謀叛に加担しているに違いない」と疑う噂が流れました。

疑心暗鬼になった信長の三男・信孝と、「長秀は友であり、兄弟である」とまで信長にいわれていた丹羽長秀は、信澄を襲撃。信澄は防戦するも丹羽家の家臣、上田重安に討ち取られてしまいました。

さらに、信孝の命令により、信澄の首は謀叛人として堺の町にて晒し者にされるという辱めを受けたのでした。享年は27頃と伝わります。

兄・信長を殺そうとした謀叛人の子どもとして生まれ、織田家の家中で重要な役割を果たすも、次は信長を殺した義理の父の謀叛により疑いをかけられ、最期は自身が「謀叛人」となり殺された信澄。

本当に裏切りだったのか、不幸な濡れ衣だったのか。
『蓮成院記録』には信澄が殺されたことについて「光秀の縁者だったためか、あるいは謀叛に加担したためかは不明」としています。その一方で、『家忠日記』では「光秀と信澄が組んで謀叛を起こした」と記されているそう。

父の謀叛のときは幼子だった信澄が大人になるまで父を殺害した信長を恨み続けていたために、光秀と組んだ……かどうかは不明です。

もし、偏見からくる濡れ衣だとしたら。戦国の世のならいとはいえども、あまりにも不運で悲劇的な生涯でした。

5ページ目 キリスト教と仏教で評価が分かれすぎる信澄

 

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