【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期:2ページ目
信長のトラウマ弟・信勝の嫡男、織田信澄
織田信勝(信行)の嫡男として生まれた織田信澄。生年日は諸説あり、確定することができません。織田信長の甥で、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと想定されています。
弘治2年(1556年)父・信勝は兄に対して謀反の企てを起こして敗北。永禄元年(1558年)、暗殺されました。「豊臣兄弟!」では、信勝が信長の病気見舞に訪れたふりをして寝所に入り、殺そうとしたところを柴田勝家(山口馬木也)が斬り殺すシーンが描かれていました。
信長は、折に触れ何度もその場面を思い出しては苦しみ、お市いわく「兄は信勝がトラウマで人間不信になっている」と小一郎(仲野大河)に伝えてましたね。
実は、勝家が信勝を直接斬ったという史料は伝わっていないそう。
▪️『信長公記』による逸話
『信長公記』(太田牛一の著)によると、
信長は仮病で信勝を清洲城に誘い出し、信勝が見舞いに行くと、清洲城の北櫓、天守閣の次の間で待っていた信長の臣・河尻秀隆と青貝某が信勝を殺害。
▪️『信長記』による逸話
『信長記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の伝記)によると、
山口飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝の3人が信長の寝所で信勝を討つつもりが失敗。信勝は母親の寝所に向かって逃走するも、廊下にて信長の乳兄弟・池田恒興が殺害。
ほか、信長関係の史料によって関わった人間や場面は違いがあります。
けれども、信勝の子供たちは殺されることなく助命されて、信長の命により柴田勝家のもとで育てられました。
理由は、信長・信勝の母である土田御前の助命嘆願があった・信長は身内や家臣に甘いところがあった・血縁者を減らすのが忍びなかったからなどが挙げられています。
そして、幼子(信澄)が成長するまで父親の恨みを覚えているとは思えないため「将来、自分の息子たちの忠臣になるよう教育しよう」と考えた……ともいわれています。
