【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期:3ページ目
織田家を支える人物として活躍
信澄は、織田本家と区別をするために庶流・分家である津田氏に入り(養子縁組的な扱いを受けた)津田姓を名乗ったといわれています。
元亀2年(1571年)には、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子になりますが、磯野姓を名乗ったかは不明です。
天正(1574年)2月に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆(※)の「御坊様」として出席。
同年3月に信長が東大寺正倉院の香木・蘭奢待を切り取った際にも、「津田坊」と童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかったのかもしれません。
※将軍や大名の側近に侍して相手をする職名
▪️越前一向一揆征伐が初陣
天正3年、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍したのが信澄の初陣です。その戦いでは、柴田勝家・丹羽長秀とともに鳥羽城攻めを行い、500〜600の一揆勢を討ち取ったそうです。
また、同年9月25日、京から来た公家の吉田兼見を馳走して信長への取次役を務めたり、10月に兼見が信長に礼参した際には、信澄が進物を披露したりという働きも。
信澄は若い頃から信長の信頼を得ていたようです。
その後は近江に領地を与えられ、明智光秀の丹波攻略に参戦し光秀の娘を正室にもらい、天正七年(1579年)には長男も生まれています。さらに、石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加、信長の趣味であった相撲興行でも奉行を務めました。
単純に腕っぷしに優れた者を決めるだけではなく、戦いぶりなども観察して優れていると思われる人材を発掘する現場ともいわれた相撲大会。そこで、堀秀政や蒲生氏郷などと一緒に奉行を務めたということは、「重臣」同等と扱われていたのかも知れません。
さらに、信長の一大軍事パレードである『京都御馬揃え』の際も、一門衆の五番目として、信長の長男・次男・弟・三男のという場所に位置しました。
その後もさまざまな活躍をし、丹羽長秀とともに家康の接待も命じられた信澄。弟には裏切られたとはいっても、やはり自分の血が繋がっている甥っ子です。「今後の織田家を支える人物」候補として信長は信頼し、期待をかけていたのではないでしょうか。
順風満帆に見えた信澄の人生は、この後大きく変わったのでした。
