朝ドラ【風、薫る】大山捨松が輝いた『鹿鳴館』はなぜ4年で終わった?西洋化への反感と風俗の乱れ:4ページ目
西洋化への反感や風俗の乱れなどで4年間で衰退
幕末から明治時代へ。新旧交代の時代の文化や風俗に一つの方向性を示した鹿鳴館。
けれども、欧化政策・海外に媚びる卑屈な政治姿勢などに批判的な人々の反発を買うようになりました。
さらに、井上馨の政治的失脚、夜会などによる風俗の乱れ(伊藤博文が酔っ払った挙句の女性スキャンダルとか)なども原因で、華やかなりし「鹿鳴館時代」は約4年間で衰退したのです。
明治23年(1890)には閉鎖され、十五銀行へと土地や建物は払い下げとなり、明治27年(1894)には華族たちの親睦団体である華族会館に貸与することになります。その後、老朽化のために昭和15年(1949)に解体されました。
「せっかくの建築物を保存しよう」という声も上がったようですが、当時が戦時体制だったために、西洋風の社交の場に対する世間の風当たりや反感なども高まっていたことも、保存されず解体した理由にあるとか。
昭和の建築家・谷口吉郎は自身の手記で、「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」と綴っていました。
確かに、華やかな社交の場として活躍した建築物をこの目で見てみたかったと思います。
鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩江戸屋敷の表門は旧国宝に指定されていたものの、昭和20年の東京大空襲で焼失。
建物があった定刻ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれていたのですが、残念ながら再開発のため2022年11月に撤去されてしまいました。
「鹿鳴館時代」が終焉を告げた年に「看護の道へ」…
華やかな「鹿鳴館時代」が終焉を告げた明治20年(1887)。
同年、日本赤十字社篤志看護婦人会という、日赤初のボランティア組織が設立しました。有栖川宮妃董子を初代幹事長とし、大山捨松も発起人の名簿にその名前を連ねています。
さらに同年、大関和も鈴木雅も28〜29歳で、「桜井女学校(別現在の女子学院)に新設された附属看護婦養成所に入学し、出会います。
ドラマの捨松いわく、キラキラと輝いた「はりぼての社交場・鹿鳴館」。その終焉とともに、大山捨松・大関和・鈴木雅の三人が福祉や看護への道を歩み始めたのかも……と、思うと感慨深いものがありますね。
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参考:
鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 久野 明子著
鹿鳴館を創った男: お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯 畠山 けんじ著



