【豊臣兄弟!】「本能寺の変」の伏線は“播磨侵攻”にあった?信長・秀吉・光秀を結ぶ四国政策の大誤算
1576年(天正4年)、毛利輝元(濱正悟)・上杉謙信(工藤潤矢)・石山本願寺らを中心とする第三次織田信長包囲網が形成された。
これに対抗するため、信長は羽柴秀吉・秀長(仲野太賀)兄弟を播磨へ送り込む。その目的は、播磨を押さえることで毛利氏と石山本願寺を結ぶ陸海の連絡網を断ち、本願寺を孤立させることにあった。
しかし、海上交通の遮断は播磨攻略だけでは十分ではないと判断した信長は、四国で勢力を拡大する土佐の長宗我部元親と誼を通じ、瀬戸内海の主導権を毛利氏から奪い、海上交通を安定させようとした。
だがこの戦術が、やがて明智光秀(要潤)を追い詰め、本能寺の変を呼び寄せる一因となっていくのである。
中国攻めの一環として行われた四国政策
第三次織田信長包囲網に対し、信長は羽柴秀吉を中国方面軍の司令官として播磨侵攻を命じた。一方で、畿内方面軍の司令官の明智光秀には、四国土佐を拠点とする長宗我部元親との外交を任せた。
信長は瀬戸内海北岸を秀吉に押さえさせ、土佐を統一して阿波に侵攻する元親と誼を通じて、四国における瀬戸内海側の安定を手に入れようと考えたのだ。
信長が瀬戸内海の重要性を認識したのは、1576年(天正4年)7月の第一次木津川口の戦いであった。この戦いは織田勢に囲まれた石山本願寺に兵糧を入れるための毛利水軍と雑賀衆の共同作戦だった。織田水軍はこれを阻止すべく木津川河口で待ち受けたものの壊滅的な打撃を受けてしまう。
それでも信長は翌年の第二次木津川口の戦いでは、九鬼水軍に造らせた鉄甲船を用いて毛利水軍を破っている。とはいえ、その後の本願寺との戦いを有利に進めるためには、瀬戸内海ルートの安定は必要不可欠だった。
しかし1578年(天正6年)2月、播磨攻略を目指した秀吉は、三木城に籠城する別所長治(下川恭平)をはじめ播磨の国衆たちの反乱に苦しむことになる。
※関連記事:
『豊臣兄弟!』ズタズタに引き裂かれたプライド…秀吉(池松壮亮)が犯した失敗と「播磨大誤算」の原因
中国戦線が膠着状態に陥ったことは、信長にとって大きな誤算だった。それゆえに信長は不安定な中国に対して、四国だけでも安定して味方に引き入れようと、長宗我部氏に対し宥和的な外交姿勢を打ち出したのだ。
長宗我部氏との交渉役に光秀が任じられたのは、光秀の家老である斎藤利三(さいとうとしみつ)の兄・石谷頼辰(いしがいよりとき)の妹が元親の正室であったことによる。信長は光秀のもつ斎藤・石谷ラインを使って、長宗我部氏に同盟を働きかけたのである。
『元親記』によると元親は信長から「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」との朱印状を与えられたとされる。また、荒木村重(トータス松本)が謀反した頃、元親の嫡男が元服したときに信長が烏帽子親となり、「信」の偏諱を与え、嫡男は信親と名乗った。このことからも、信長がいかに元親に気を使っていたかが伺えるのである。



