【豊臣兄弟!】「本能寺の変」の伏線は“播磨侵攻”にあった?信長・秀吉・光秀を結ぶ四国政策の大誤算:3ページ目
信長への不信が本能寺の変へ繋がった
元親からすると、信長の仕置きはまさに「寝耳に水」であったろう。確かに四国平定は元親の悲願であったかもしれないが、元親は信長の敵である毛利側の河野氏と伊予で戦火を交えていたのだ。
1582年(天正10年)3月、信長は甲斐の武田勝頼を追い詰め武田氏を滅亡させた。これにますます軍事的に有利になった信長はさらに厳しい要求を元親に突き付けた。それは土佐一国の領有しか認めないというものだった。
こうなると元親は光秀に頼るほかなくなっていた。同年5月、元親は「せめて土佐と阿波の国境にある海部城・大西城は安堵して欲しい」と光秀に信長への取り成しを依頼した。
しかし光秀は石谷氏を通じて「ここは信長の言うことを聞くのが肝要だ」と説得するしかなかった。そして元親にとって事態はますます悪化していく。ついに信長は三男・織田信孝(結木滉星)を総大将に丹羽長秀(池田鉄洋)・津田信澄(緒形敦)を副将として四国攻めを命じたのだ。
そして6月2日、信孝率いる四国征伐軍がいよいよ大坂から渡海するという日の早朝、光秀の軍勢が京都・本能寺を急襲し、織田信長はその生涯を閉じたのである。
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本能寺の変の動機を四国問題だけで説明することはできない。だが少なくとも光秀が長年取り組んできた長宗我部氏との外交が信長によって覆され、苦境に立たされていたことは間違いないだろう。
また播磨攻略と四国政策は信長にとっては、ともに毛利氏を孤立させ、中国攻めを成功へ導くための一連の戦略だった。ところが情勢が有利になると、味方であった長宗我部元親を追い詰めるものへと豹変していく。
このような信長に、多くの家臣や同盟者が不信感や恐怖感を抱いていたのはいうまでもないだろう。それが信長への離反や裏切りとなり、やがて本能寺の変の伏線になっていったと考えられるのである。
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※参考文献:渡邊大門 著 『本能寺の変に謎はあるのか?』晶文社
※トップ画像:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより





