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【豊臣兄弟!】「本能寺の変」の伏線は“播磨侵攻”にあった?信長・秀吉・光秀を結ぶ四国政策の大誤算

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播磨平定後に起きた四国政策の方針転換

信長から四国平定のお墨付きを貰った元親は、阿波から讃岐にまで勢力を拡大する。しかしその間に、信長は諸勢力による包囲網を切り崩していた。

1579年(天正7年)6月、別所長治の離反に呼応するように反旗を翻した丹波八上城の波多野秀治を討つと、同年9月には荒木村重の有岡城を陥落させた。

そして1580年(天正8年)1月には、20カ月間も持ちこたえていた三木城が、秀吉による徹底した兵糧攻めにより落城し長治は自害して果てた。さらに同年3月には石山本願寺も力尽き和睦が成立、法主の教如が大坂から退去したのだ。

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ここに信長を悩ました包囲網の敵対勢力は、毛利氏を除きほぼ壊滅した。これを受けて信長の長宗我部氏に対する方針は大きく転換するのである。

この頃になると元親は土佐・阿波・讃岐を平定し、伊予に軍を進めていた。その元親に対し信長は土佐一国と阿波半国のみ安堵し、讃岐と阿波半国は信長に返上することを通達した。そのうえで三好康長に、阿波と讃岐の領有を認める朱印状を与えたのである。

3ページ目 信長への不信が本能寺の変へ繋がった

 

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