『豊臣兄弟!』の聖地巡礼 ──超重要、天下統一の契機「中国大返し〜山崎の合戦」の真相に迫る【前編】:2ページ目
160kmの距離をわずか5日で移動する驚異の大返し
光秀にとって、何よりも誤算だったのは、秀吉のあまりにも素早い動きでした。備中高松城の包囲を解いた秀吉は、2万5千の軍を率い、6月6日の午後に高松を発つと、約12キロメートルを移動し、その日の夜には備中沼城に到着して一夜を明かします。
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翌7日の早朝に沼城を発つと、一昼夜をかけて55キロメートルを進み、8日の朝には姫路城に入りました。軍勢はここで一日休息を取ったのち、9日の朝に出発。さらに一気に80キロメートルを走破し、11日の朝には尼崎城に到着したのです。
約160キロメートルをわずか5日あまりで移動するというこの行軍は、光秀にとって到底予想できるものではありませんでした。いや、光秀のみならず、当時であれば誰しも驚愕したことでしょう。
この秀吉による「中国大返し」が、なぜ可能であったのかについては、古くからさまざまな説が唱えられてきました。
その一つが、重い甲冑や武具は船に積んで海路で姫路へ運び、軍勢は身軽な姿で山陽道を疾駆したという説です。
しかし近年、城郭考古学者の千田嘉博氏(奈良大学教授)は、「大返し」の途上で秀吉軍が休憩・宿泊した地点には、中国攻めにおける信長の親征を想定して、あらかじめ御座所(ござどころ)が整備され、兵糧も備蓄されていたと推測しています。
秀吉は、もともと信長のために用意していたこれらの御座所を、2万を超える将兵のために転用。これこそが、「中国大返し」を支えた大きな要因であったという見方です。
そして、この「大返し」の途中で、秀吉はさまざまな手を打っています。その一つが、畿内の諸将に対して「信長公は本能寺を脱出して無事である」という虚偽の情報を流したことでした。信長が生きているかぎり、誰も光秀に味方することはできない、という心理を突く狙いがあったのです。
また畿内の諸将は、畿内方面軍の司令官であった光秀の与力でもありました。秀吉はこの噂を流すと同時に書状を送り、逆に自らの陣営へ引き入れることに成功します。さらに秀吉は、四国征伐のため畿内に待機していた信長の三男・織田信孝の遠征軍も手中に収めました。


