和田竜 12年ぶり新作『最後の一色』怪物武者・一色五郎の武勇伝と非業の最期をたどる
戦国小説『のぼうの城』『忍びの国』『村上海賊の娘』等で知られる和田竜が、12年ぶりに新作をリリースしました。
その名も『最後の一色』。織田信長さえ認めた戦国最後の怪物武者・一色五郎(いっしき ごろう)が大暴れ。乱世を駆け抜けたその先に、どんな結末が待っているのでしょうか。
今回はそんな一色五郎を紹介。小説『最後の一色』を楽しむ参考にどうぞ。
戦国乱世を駆け抜けた一色五郎の生涯
一色五郎と名乗る戦国武将は複数名おり、本作の主人公である一色五郎は一色義定(よしさだ。又の名を義忠?)ではないかと考えられています。
この義定は江戸時代の軍記物語『一色軍記』にしか記録がなく、戦国時代の一次史料には名前が出てきません。
よって架空の人物であるとも言われていますが、諸系図には名前が記されているため、その存在が言い伝えられてきた可能性もあります。
存否さえ諸説入り乱れる謎の人物であり、今後の究明に期待しましょう。
五郎は丹後国守護職の一色義道(よしみち)または一色義員(よしかず)の子と言われ、父と共に織田信長の丹後侵攻を迎撃。優れた武勇を発揮して、織田の将・長岡藤孝(ふじたか。細川幽斎)を撃退したと言います。
しかし織田との対立が続く天正7年(1579年)。父が中山幸兵衛(こうべゑ。沼田勘解由)に裏切られ、丹後中山城(京都府舞鶴市)で自害に追い込まれてしまいました。
五郎は一色の家督と守護職を継承。残党を率いて弓木城(ゆみのきじょう。京都府与謝野町)に立て籠もり、なおも抗戦を続けます。
弓木城は鎌倉時代末期に稲富氏が築いた堅牢な山城で、五郎は砲術に長けた稲富祐直(いなどめ/いなとみ すけなお)ら鉄砲隊と共に、長岡勢をたびたび撃退しました。
攻めあぐねた藤孝は、明智光秀の助言により五郎と和睦。人質として娘の伊也(いや)を嫁がせ、以後は五郎と藤孝で丹後国を分割統治することになります。
かくして織田と和睦した五郎は、織田政権下における丹後国守護職として認められました。
天正9年(1581年)の京都御馬揃に参加したり、天正10年(1582年)の甲州征伐に参陣したりと、半ば織田家臣のような立場に置かれていきます。
しかし決してそれに甘んじていた訳ではないらしく、五郎は西隣の但馬国の山名堯熙(たかひろ)と関係を深めるなど、叛旗を翻す機会を窺っていたのかも知れません。
そんな天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が横死を遂げると、五郎は明智光秀に与することを決断しました。
舅の藤孝もそうするだろうと思っていたのでしょうが……藤孝は結果的に光秀から離反。間もなく光秀は山崎の合戦で敗死し、その残党として五郎は謀殺されてしまったのです。
時は天正10年(1582年)9月8日。藤孝の居城である宮津城(京都府宮津市)へ招かれ、自害に追い込まれたということです。
宮津城へ同行していた将兵ら100名も、長岡家臣の松井康之(まつい やすゆき)や米田求政(こめだ もとまさ)らによってことごとく討ち取られ、弓木城に残っていた者たちも降伏したのでした。
こうして「最後の一色(丹後国守護職としての一色家当主)」は、戦国乱世の舞台から姿を消したのです。
その後、叔父の一色義清(よしきよ)が弓木城を奪還。激しく抵抗したものの、長岡勢によって攻め滅ぼされてしまいました。
※この義清こそ「最後の一色」とする説もあります。
