身分詐称で切腹に!江戸時代の武士が“ニセ息子”で挑んだ最後の賭けと悲惨な末路:3ページ目
窮余の策も、あっさり見抜かれ……。
「よいか、そなたは粕谷三郎助(さぶろうすけ)じゃ。わしが百姓女に生ませ、永らく農村で暮らしていたのを近ごろ引き取った……という設定にする」
「承知しました」
金大夫は林十右衛門改め粕谷三郎助を我が子として迎え、浄徳寺の住職・倫阿(りんあ)とも口裏を合わせます。
そして寛延2年(1749年)3月25日、金大夫は三郎助を将軍・徳川家重(第九代)に拝謁させました。
……が、こういう小細工はすぐにバレてしまうもの。
同年6月21日に「御公儀を謀(たばか)った罪」で金大夫は切腹。三郎助は遠流に処されてしまったのです。
遠流に処された三郎助がどんな末路をたどったか、詳しいことは分かっていません。
恐らくロクな死に方はしなかったことでしょう。
終わりに
今回は粕谷金大夫のエピソードを紹介してきました。
身分詐称はもちろん悪いことですが、事情を知ると同情の余地がなくもありません。
それでも身分詐称の汚名を残すくらいなら(切腹なので武士としての名誉は守られているテイながら)、そのまま御家を断絶させる決断もあったのではないでしょうか。
現代とは価値観が大きく異なるため何とも言えませんが、金大夫にも葛藤があったものと思われます。
『寛政重脩諸家譜』にはこうしたマイナー武士たちのドラマも記録されているので、読んでみると面白いですよ!
※参考文献:
- 高柳光寿ら『寛政重脩諸家譜 第22』平文社、1966年4月

