江戸のギャンブル沼。賭博の蔓延が規格外すぎた江戸時代、奉行が出した驚きの結論【後編】
大名屋敷も賭場に
【前編】では古代から江戸時代までの賭博事情について駆け足で説明しました。
賭け事しない奴は野暮?なぜ江戸時代は大奥や子供までも”ギャンブルの虜”だったのか?【前編】
【後編】では、こうした状況の実情と、行政の対応について見ていきましょう。
サイコロを使った賭博は、身分や場所を問わずに行われていました。
そういえば『仕掛人藤枝梅安』にも、「どこの大名屋敷でもそうだが、ことに下屋敷の中間部屋は、夜になると博打場になってしまう」という記述があります。
もちろん当作はフィクションですが、作者の池波正太郎は賭博が当たり前のように行われていた当時の状況について、深い理解を持っていたのでしょう。
実際、奉行所も大名屋敷には手が出せなかったので、賭場としては最良の環境でした。寛政7年(1795)には、火付盗賊改の長谷川平蔵から申請された次のような判決例があります。
ある時、喜兵衛という老人の家の土蔵で、毎日のようにサイコロ賭博が行われていたとして、身分相応の過料に加えて100日の手鎖の刑に処せられました。
喜兵衛は「土蔵の管理は娘婿に任せており、私は何も知らなかった」と主張しましたが、実際は集まった者たちから「心づけ」という名目で金を受け取っていたのです。
悪用された富くじ
また、非公認の富くじである「影富」に巧妙な細工をしたとして、罰せられた下級武士もいます。
小普請方の労務者世話役の佐助という男で、自分で用意した1000枚の影富を「感応寺のお徳用富くじ」と偽り、1枚3文で売りさばいていました。
儲けた額は現在の金額にすると約6万円程度でしたが、彼は家屋などの財産をすべて没収されて重追放されるという、極めて重い処罰を受けています。
富くじは寺社が修繕費用を調達する目的で認められたギャンブルでしたが、影富は単なる賭け事にすぎませんでした。
寺社に納めない分も購入者に還元されるので、賭け事が好きな江戸っ子を惹き付けたのです。


