【べらぼう】史実では異なる佐野政言の切腹。世直大明神の「辞世の句」や社会的影響を紹介:3ページ目
佐野政言の葬儀と社会的影響
切腹して果てた佐野政言の葬儀は4月5日、佐野家の菩提寺である徳本寺で執り行われました。戒名は元良印釈以貞居士(がんりょういん しゃくいていこじ)。
しかし両親をはじめ遺族たちは謹慎を申しつけられていたため、誰も参列できません。
代わりに多くの見物人が押しかけたそうで、寺の山門に「佐野大明神」と書いた紙を貼りつける者もいたそうです。
にっくき田沼の跡取りを葬ったことで、世直しが行われる期待を込めたのでしょうか。
こうした動きが思わぬ事態を招くことを警戒して、当局は寺社奉行や同心を配置したそうです。
やがて田沼政権が窮民対策として仕入れた米が江戸に到着したため、米の価格は一時下落。さすがは世直し大明神様……と人々は賞賛しましたが、しばらくすると米の価格は再び上昇したと言います。
政言が意知を斬った刀が粟田口忠綱(あわたぐち ただつな。一説には粟田口保光)であったことから、同作の人気が高まり、価格が上昇しました。
また刃傷事件をモデルとした作品が世に出され、例えば黄表紙『黒白水鏡(こくびゃく みずかがみ)』や浄瑠璃・歌舞伎「有職鎌倉山(ゆうそく かまくらやま)」など、田沼騒動物と呼ばれるジャンルが確立していきます。
世の人々は田沼憎しもあって政言に同情し、多くの者が徳本寺に参詣。その墓前には線香の煙が絶えませんでした。
終わりに
刃傷事件を起こしてしまった佐野家は改易(所領没収)となり、家屋敷も没収されてしまいます。しかし政言の遺産については遺族への相続が認められました。
血縁者の連帯責任は問われなかったものの、男児も兄弟もいなかかったため、佐野家は断絶してしまいます。
その後も佐野家を再興させる動きは何度かあったものの、結局ならぬままに武士の世は終焉を迎えたのでした。
政言
源之助 善左衛門 母は某氏。安永二年八月二十二日家を継、十二月二十二日はじめて浚明院殿に拝謁す。六年二月七日大番となり、七年六月五日新番にうつる。天明四年三月二十四日営中にをいて田沼山城守意知を傷け、意知これがために死するにより、四月三日切腹せしめらる。妻は村上肥前守義方が女。
家紋 丸に剣木瓜 丸に左の古文字
※『寛政重脩諸家譜』巻第八百五十二 藤原氏(秀郷流)佐野
今回は江戸城中で田沼意知を斬った佐野政言の最期について紹介してきました。
私怨からの乱心として処理されたものの、人々からは「世直し大明神」として持て囃された今回の刃傷事件は、田沼政権の没落を象徴する出来事となったのです。
※参考文献:
- 『史学 第57巻4号』慶應義塾大学三田史学会、1988年3月
- 『寛政重脩諸家譜 第5輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 中江克己『徳川将軍百話』河出書房新社、1998年3月

