大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長以外は皆殺し…秀吉が兄弟姉妹に課した残虐な仕打ちの数々:2ページ目
一家眷属のほぼ全てを失った同母姉・日秀尼
日秀尼は、豊臣秀吉の同父姉(父は木下弥右衛門)であり、秀長および朝日姫の異父姉にあたります。諱は「智(とも)」で、本名は「智子(ともこ)」ともいわれています。
彼女は、尾張国海東郡乙之村の百姓・弥助に嫁ぎ、秀次・秀勝・秀保の三人の母となりました。弥助は後に三好吉房と名乗り、関白となった秀次の家老を務め、秀吉の一門衆として清洲城主にまで出世を遂げます。
しかし、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生すると状況は一変し、秀次は謀反の罪で自害に追い込まれます。
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相
不自然な通説豊臣政権の2代関白・豊臣秀次の切腹は紛れもない史実です。その1週間前の文禄4年(1595年)7月8日、従者数人を連れた秀次は京都の聚楽第から南郊・伏見城に秀吉を訪ね、その足で紀…
夫・吉房も所領をすべて没収され、讃岐へと流されました。それどころか、その直後には三男の大和中納言・秀保も急死するという不可解な死を遂げるのです。
次男・秀勝はすでに朝鮮出兵中に死亡していたため、智は短期間のうちに三人の息子をすべて失い、夫とも生き別れるという過酷な運命をたどることになります。
秀次に対する秀吉の対応が常軌を逸していたことは周知の事実です。この事件で智自身はなんとか難を逃れましたが、秀吉は秀次の子どもたち、すなわち彼女の孫たちのほとんどを処刑してしまいました。
これを受けて、智は京都・嵯峨野の地に善正寺を建立し、息子・秀次一族の菩提を弔う人生を送ることとなるのです。


