すし・鰻・天ぷらは江戸庶民のファストフード 〜江戸時代グルメの誕生秘話と高級化の歴史:2ページ目
庶民のファストフードだった、すし・鰻・天ぷら
現代では、「すし」「鰻」「天ぷら」は、基本的に「ハレの日」の食べ物と思われがちですが、これらは江戸時代、江戸の町で現代のような形に発展した食文化です。
そして、いずれも庶民に愛された屋台料理として、ファストフードからスタートしました。
将軍のお膝元と称された江戸は、もともと武家のために建設された町でしたが、その総人口は江戸時代中頃にはゆうに100万人を超え、当時としては世界的にも稀な大都市へと成長します。
その人口構成を見てみると、武士と庶民階級である町民の数はほぼ同数でした。しかし、貨幣経済の浸透に伴って商業が発達すると、江戸の町の主役は次第に武士から町民へと移り変わっていきます。
そのため、江戸の町には町民の生活に彩りを添えるさまざまな文化や娯楽が生まれました。江戸各地の寺社の門前や、日本橋のような大店(おおだな)が立ち並ぶ場所は、「江戸名所」として人々で賑わう“盛り場”へと発展していったのです。
そうした場所には、必ずといってよいほど食の楽しみがありました。休憩がてら団子やお茶を楽しめる茶店はもちろん、お酒も味わえる煮売りの屋台も登場しました。そして、そうした屋台では、次第に「すし」「鰻」「天ぷら」が提供されるようになっていきます。
「すし」と「鰻」は、古くから親しまれていた食材を用いつつ、江戸時代に調理法が工夫され、さらに身近な食べ物となりました。ポルトガルから伝わったフリッターを起源とする「天ぷら」も含め、それぞれが江戸時代に確立された調理法によって形づくられ、現在に至るまで脈々と受け継がれているのです。
