手洗いをしっかりしよう!Japaaan

イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】

イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】:2ページ目

政権樹立目前で病魔に襲われ死す

足利義尚が率いる幕府軍は、近江に侵入すると、瞬く間に六角高頼の本城・金剛寺城(滋賀県近江八幡市)を陥落させます。高頼はたまらず甲賀に落ち延びますが、義尚は追撃の手を休めず自ら先頭に立ち兵を進め、近江・鈎(まがり・滋賀県栗東市)に本営を構えました。

鈎の本営に腰を据えた義尚は、六角征伐と並行して、ここを拠点に本格的な執政を開始。これに伴い、本営は将軍の居館として整備され、「鈎御所」「江州御所」などと呼ばれるようになり、将軍が執務を行う政庁としての役割も担うことになります。

京都から奉行衆を呼び寄せた義尚は、これに近臣を加えて評定衆を組織し、裁判などを行いました。鈎御所において、彼はついに義政から自立を果たし、第9代将軍としての治世を開始したのです。

一方その頃、義政は脳卒中の発作に見舞われるようになり、病床に伏すことが多くなりました。そのため、義尚に対して政治的に介入することは、ほとんど不可能な状況となっていきました。

義尚は親政を続けることで政治的な実績を重ね軍事的にも六角氏を圧倒しました。やがて、その存在感は義政をも上回るようになっていきます。

義政の病状もあり、幕府内では義尚の京都帰還を求める声が高まりました。このように、義尚による完全なる政権樹立が目前に迫っていたその時、彼の身に不運が襲いかかります。突然、重篤な病に倒れたのです。

もともと身体があまり強くなかったといわれる義尚は、軍営での激務に加え、京都から訪れる公家や高僧の接遇を自ら率先して行ったことから酒量が増し、病魔が心身を蝕む事態に陥ってしまいました。

医師たちの治療の甲斐もなく、義尚はたちまち重体に陥ります。母・日野富子は、そんな義尚を心配して京都から駆けつけましたが、1489年(延徳元年)3月26日早朝、義尚は近江鈎の陣中で没し、わずか25歳の生涯を閉じたのです。

3ページ目 勇将であり、和歌・絵画にも通じた文化人

 

RELATED 関連する記事