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イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】

イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】:3ページ目

勇将であり、和歌・絵画にも通じた文化人

足利義尚の亡骸は富子に付き添われて京都へ戻り、足利将軍家の菩提寺である等持院に葬られました。義尚の遺体を出迎えるため、まるで凱旋将軍を迎えるかのように多くの群衆が集まったと伝えられています。

室町時代の花の名手・大沢久守の日記『久守記』には、義尚の葬儀の際、その遺骸と最後の別れを迎えた富子の様子が記されています。

そこには「御台、御輿の内にて声も惜しまず、むずかりけり。知るも知らぬも、涙を流しけり」とあり、輿に乗ったまま声を惜しまず号泣する富子と、それを聞いた人々も皆涙を流したと伝えられているのです。

義尚に対する歴史的評価は、一般に辛辣です。その理由は鈎の陣中で執政を行う時、一部側近にのみ幕政を委ねた。酒色に溺れて死んだ。親征を行ったものの何の成果を挙げられなかった。さらに教育係であった一条兼良が、余りに無能なので見放した、というものまであります。

しかし一方で、義尚は義満以来、万余の兵を率いてその陣頭に立った勇将であり、和歌・絵画・書にも通じた文化人でもありました。

そのような義尚だからこそ、都人たちは出陣する彼に手を合わせて見送り、その亡骸の前で涙を流したのではないでしょうか。ただ惜しむらくは、天は彼に長生きを許さなかったのです。

義尚の死後、足利将軍家は一門内の将軍争いや大名たちの抗争により、京都を追われたり上洛に苦労したりと、もはや安定した政権維持が不可能となりました。

もし義尚がもう少し長く生き、京都に戻って活躍できていたなら、足利将軍家の立場も多少は異なっていたのではないでしょうか。

※参考文献
山田康弘著 『足利将軍たちの戦国乱世』 中央公論新社刊

 

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