室町幕府の権威回復を一身に背負う!威風堂々たる若き緑髪将軍・足利義尚の悲劇的な人生【前編】:2ページ目
いまに伝わる足利義政の人物像は、政治に興味を持たず、文化面に比重をおいた将軍ということになり、東山文化の創設者として、文化史の面では後世に高い評価を得ています。
すなわち、東山殿、後の慈照寺銀閣及び東求堂の書院造。宗祇らによる連歌(れんが)、雪舟らの水墨画。その他、茶の湯、生け花など、東山文化は現在に続く、さまざまな芸術を生み出しました。
そしてついに、1477(文明9)年、11年にわたる大乱・応仁の乱が終わります。それとほぼ同時に義政は、東山殿の建設を開始。その建設には莫大な費用が掛かることは言うまでもありません。その費用を捻出するために、彼は将軍としての諸権限を手放すわけにはいかなかったのです。
足利将軍家の政権は、後の徳川将軍家に比べると不安定であったとされます。それは、広大な直轄領も強力な直属軍も持たなかったことが大きな理由でした。さらに応仁の乱により、室町将軍の権威は完全に失墜したともいわれます。しかし、意外なことに戦国時代に入ってもその権威は持続していました。
その代表例としては、13代将軍・足利義輝による諸大名間の抗争の調停・仲裁が挙げられます。また、15代将軍・義昭と織田信長との同盟関係、さらには義昭による信長包囲網の構築などもあり、豊臣秀吉による天下統一に至るまで、室町将軍の権威はなお武家の頂点にあり続けていたのです。
このように、足利将軍は全国の武士たちにとって犯しがたい権威を有しており、将軍職には多くの報酬がもたらされました。8代将軍・義政もまた、将軍としての権威を維持することで莫大な報酬を得ており、それは彼が推進した文化活動の費用を賄ううえで不可欠なものであったのです。
3ページ目 六角高頼征討のため大軍を集める

